わすれものじゃなくて
不機嫌になる権利などないのは分かっている。文句を言う筋合いもない。
それでも、今日子は自身が険悪な表情を浮かべるのを抑えることが出来なかった。
湯気で曇った浴室の鏡に、きつく眉根を寄せた自分が映っている。
ただでさえ彫りの深い華やかな顔立ちなだけに、印象は険悪を通り越して最早凶悪だ。
ああ、駄目だわこんなんじゃ。大きく息を吐いて、強く目を瞑って、ゆっくり五つ数えてから、目を開けた。
――多少不機嫌そうだが、辛うじていつも通りだろう。
意識的に肩の力を抜き、髪の水気を切ってから、大判のバスタオルを巻いて浴室を出た。
「あれ、ずいぶん早くね? もーいいの?」
「ええ。ありがとう」
「きょーこさんてもっと長風呂かと思ってた」
「……どうして?」
いんや、ただのイメージ、と言って、部屋の主はにかりと笑った。
湯上りにバスタオル一枚という姿の今日子から目を逸らすこともなければ、動揺した素振りも、逆に期待した気配もない。
――不機嫌になる権利などないのは、それこそよく分かっている。
それでも、彼のあまりに平然とした振舞いに、すっきりしない感情を抱く今日子だった。
ましてや、さっき浴室で見付けたものを思い出せば。
「んじゃ、パジャマはそこに置いてっから、汗が引いたらテキトーに着て。あ、ビールは冷蔵庫だけど、まだ飲んじゃダメな!
俺が風呂上がってから乾杯すっから!」
「はいはい。ごゆっくりどうぞ」
「俺のうちだっつーの」
けらけら笑って曇り硝子の向こうに消えた姿に、たぶんビールより苦い感情を噛み締める。
不愉快なのは、それを不愉快だなどと思ってしまう自分自身だ。
そんな関係を期待している訳ではない。既に何度か一緒に夜明けを迎えた仲だし
――もっとも、世間的にはそれは「飲み明かした」と表現されるのだが――
互いの家に遠慮なく上がりこむような間柄なのも、恋愛感情ではなく単なる友人付き合いの延長だ。
分かっているのに、自覚もあるのに、否定し切れないこの不愉快。
苛々と頭を振って、取り敢えずソファに身を沈めようとした途端、浴室の扉が勢いよく開いた。
「なー、きょーこさん!」
半裸の彼が身を乗り出して、何やら大きく手を振り回している。
「……何してるのよ」
「あのさー、コレ、使わなかったの?」
「どれ?」
「コレ!」
彼が掲げて見せている何かは随分と小さなもので、ソファに座ったままでは見えなかった。仕方なく、重い腰を上げて歩み寄る。
「だから、どれよ……」
「コレってば」
目を眇めて扉の前に立つと、ほら!と言わんばかりにして彼がその何かを差し出してきた。
「……あ」
それは。ついさっきまで今日子を至極不機嫌にさせていた主要素たる、小さな可愛らしいボトルで。
「……これ、何なの?」
「なんなのって、」
目をぱちくりさせて、彼は問い返す。
「メイクも落とせる洗顔料……ってヤツじゃ、ねーの? よく知らんけど」
「それは分かるわよ。何でそんなものが貴方のうちにあって、しかも貴方が『よく知らない』なんて言うのよ」
「もらったんだもんよ」
「もらったぁ?」
自分でも意外なくらい、素っ頓狂な声が出た。表情には出さずに、けれど内心動揺する。
彼の方は気にした様子もなく、相変わらずきょとんとした目で手の中のボトルを眺めていた。
「せっかくだからきょーこさんが使えばいいと思ってさ、置いといたんだけど……」
「……誰かが置いてったんじゃ、ないの?」
え?と彼が首を傾げる。子供のように無邪気な仕草で。
「誰がこんなもん持ってくんだよ。きょーこさんならともかく、新条にもハヤトにもこんなもんいらねーだろ?」
なんでそこで男の子の名前しか出さないのよ。女性関係に対して潔癖だとは言いかねるはずの目の前の男を見ながら、心の中だけで毒づく。
「ビール買いにそこのドラッグストア寄ったらさー、ちょうど配ってたんだよ試供品。
試供品なのにわざわざボトルなのってすごくね? ちょっと豪華だろ?
でまたコレが、いかにもきょーこさん!てカンジなんだもんよ、ほら」
……つまり、彼の中での自分のイメージは、このきらきらしいパールピンクと豪奢な薔薇の意匠とに集約されているのだろうか。
一応褒められているのだと思うことにして、反論したい気持ちを押さえ込む。
「ぜってーこーいうの好きだろーと思ってもらってきたのにさー、なんだ、使ってねーのかぁ……」
ちぇ、と唇を尖らせながら、ひとしきり喋り終わった彼は浴室に引っ込もうとして――その手を、今日子に掴まれた。
「待って」
「?」
「使うわ。今からでも」
「……え? だって、もう風呂……」
「また入るわ。せっかく貴方が、用意してくれたんですもの」
「え、いやでも俺入るし」
「そんなの、」
不機嫌はすっかり消え失せた、蕩け落ちるくらい豪奢な微笑で。
「私と一緒じゃ、嫌かしら?」
今日子はそう、囁いた。平然としていたはずの彼が一瞬息を呑んだので、その微笑みはますます深く、凶悪なくらいに華やかになった。
[09年11月]