こいのうた


「きょーこさん」
「なー、今日子さん?」
「おーいキョーコサンってばー」

 彼の口癖はと問われれば、きっと誰もがその「名前」を挙げるだろう。
 早朝のガレージ入り口で、焦げ付くようなサーキットの上で、ガラス越しのオレンジに染まる執務室で、薄暗いバーの片隅で、徹夜続きのファクトリで。
 幾度となく放たれる、軽やかな音の響き。

「今日子さん、」
「んー? きょーこさんは?」
「なぁ、今日子サン」

 呼びかける。問う。探す。窘める。
 促す。引き留める。振り向かせる。笑いかける。
 いつも、いつでも、繰り返し繰り返し空気を震わせる、ありふれて潔癖な、彼女を示す名前。

「……今日子さん、」

 ――そして時折、酷く焦れた声で。低く掠れた、震えを帯びる寸前の色合いで。
 唇から零れ落ちる時があることに、きっと誰もが気付いている。

 滑らかで明るい、よく通る声に、少しだけ早口の軽快な口調、よく回る頭、途切れない話題、ひっきりなしに挟み込まれる笑い声。
 余りにも屈託のない彼の、余りにも日常的に飛び出す口癖の、底に沈んだ本当の意味。

 ああ、それは恋の歌なのだ。届いていないかも知れない、届いても無視されるかも知れない、それでも繰り返す、真摯な恋の歌。
 彼自身さえ気付かない、遺伝子の奥底に組み込まれた仕組みが奏でる、彼女に向けた恋の歌。

 きょーこさん。
 きょうこサン。今日子さん。
 きょうこさん、今日子さん、きょーこサン。

 あいしてる、と囁く代わりに、あなたがほしい、と鳴く代わりに。
 茶化した声音で、何度でも。


[2012年10月]