マンマミーア!(簡略版)
葵今日子が、おかしい、と、溢れ出した水が地面に滲みていくように噂が広がったのは、世界が新しい年を迎えて間もなくのことだった。
三十路に近い鋼鉄の処女、アタマもガードも異様に固い、と一部の男性陣に揶揄されていたAOIの女王様は、
昨年度のシーズン終了と同時にAOI-ZIPフォーミュラ代表の座を辞していて、今では実家暮らしの「家事手伝い」の身分だというが。
その今日子が、男狂いだと、いうのだ。
――信憑性も何もあったもんではなかった。誰も、当事者だとは名乗り出なかった。
同僚が見たってハナシ、知り合いがそう聞いたって、相手? 知らない、ただ、毎回違うっていうよ。いや、俺は言ってないよ、けど、後輩が――。
水が地面に滲み込んで、やがて乾いて消えるように、噂は二ヶ月も経たずに収まった。
それと同時に葵今日子は消えた。既に公人ではない彼女の、居場所を詮索することは誰にとっても憚られた。
そしてそのまま、数年が過ぎ。
来季からAOI-ZIPフォーミュラ代表に復帰する、と、簡潔な記者会見を開いた葵今日子は、小さな女の子を連れていた。
彼女そっくりの、強い眼差しをした少女だった。
◆
「まだ20歳なんでしょ? 思い切ったわよね、」
「ホント、お母さんにそっくりねぇ」
「こっちのなんか姉妹みたいよ、」
扉を潜ると、一挙にざわめきが圧し掛かってきた。招待客の数は多くなさそうだが、それでもロビーには一種現実離れした熱気と、抑え切れない囁き声が飛び交っている。
受付前には片手で数え切れる程度の人の列。面倒だ、と、脳髄は一瞬で判断を下した。並んで待てば間違いなく、誰かに声を掛けられる。見知った顔の誰かに。
人気の無い方を探して踵を返せば、奥まったところに狭い階段が見えた。二階。控室に、更衣室。ああ、もしかすると、喫煙室もあるかも知れない。
ポケットの中身を手のひらで確認してから階段を昇った。細い手すり。窓の並んだ、狭い廊下。厚い絨緞は柔らかに足音を消していく。
見慣れた、けれど未だに目が離せなくなる後ろ姿に、思わず足を止めた時にも、踵の鳴るかつりという音は響かなかった。だから、彼女も気付かなかった。
窓の枠に片手を置いて、中庭の向こうの教会を見ている。緩く波打つ栗色の髪。
一目で上質なものと判るワンピーススタイルのスーツに、すっと伸ばされた首筋が、恐ろしいほど様になる。
「……何見てんの、」
声を掛ければ、ふわりと振り向いた。ぱちぱちと瞬きする、大きな瞳は変わっていない。その奥の強い輝きも。唇が何か言いかけるように開いて、僅かな間躊躇って、
……それから、小さく弧を描いた。
「空。いい天気でよかったと、思って」
「だな、」
「ほら、見て、あそこ。光が射してすごく綺麗、」
硝子越しに指差した先は噴水だ。広い大きな階段を、降り切ったその少し先に設えられた白い噴水。きっとあそこに、出席者の手で投げ上げられた花びらが散るのだろう。
「ブーケトスはあの、噴水の前でするんですって。あの子、やけに張り切って練習しててね、絶対、誰も予想しないようなとこに投げてやるんだからって言って」
思い出したのかくすくす笑う。口元に当てた手が窓からの光で白く見える。滑らかに塗られた爪。何の飾り気も無い、細い、長い指。
「練習なんかすんのか」
「するのよ。リハーサルっていうのかしら、バージンロードを歩くところから、誓いの言葉やら指輪の交換やら何やらって」
でもすっごく慌ただしかったから、あの子だってちゃんと解ってるんだかどうだか。そう続けてまたひとりで笑う。
「んで? その主役は?」
「鋭意準備中」
「……冗談みてぇだな。あのミヤちゃんが花嫁とか」
「私もそう思うわ、」
幼い頃に、何回か会った。みやこ、という柔らかな響きの名前に似合わぬほど、真っ直ぐで強い目をした少女だった。
今日子によく似た、凛とした眼差し。そう、似過ぎているくらい似ていた。父親の面影など想像も出来ないほど、彼女の娘は、彼女自身に生き写しだった。
「……早過ぎるんじゃないかって、まだ少し、思ってるんだけど」
「ん、」
「本人が嬉しそうだから、いいかな」
なんてね、と、照れたように続ける。細められた目元に柔らかな皺が寄る。口元にも。当然だ、今日子はもう、50歳に近い年齢なのだから。
それでも、綺麗だ。――素直にそう思って、それから、そう思った自分自身に少し、頬を緩めた。
「本人だけじゃねーだろ」
「え?」
「アンタも嬉しそうだけどな、って」
「……そんなの、当然でしょ」
口元に手を当てて、くつくつと笑う。少しだけ悪戯っ気を帯びた瞳が、窓からの光でゆらゆら輝く。
「楽しかったもの、準備も計画も。可愛い娘の、一世一代の晴れ舞台よ? そりゃもう、楽しみだしどきどきするし、嬉しくって仕方ないわよ、」
「アンタの方はいいのかよ」
息ひとつ詰めずに遮った。ぱちくりと瞬きの気配。笑い声の余韻がはらはら消えて、遠くから、低いざわめきだけが聞こえてくる。
「…どういうこと?」
「アンタの方は、一世一代の晴れ舞台に昇んなくていいのかよ」
「……そんなこと言ったって、」
面食らった瞳は呆れの色を映して、それから融けるように苦笑の色に変わった。ほんの少し下がった眉。
「結婚式って、ひとりじゃ出来ないのよ?」
「相手さえいりゃ、できんだろ」
「それが」
いちばん難しいんじゃない、と、続けた声がしゅるしゅると小さくなっていく。見開かれた瞳が頼りなく揺れる。ああ、久しぶりに見る。こんな顔。
「……なにが言いたいのよ」
「わかってるクセに」
揶揄する口調で言ったつもりが、妙に低く、柔らかく響いた。口元が勝手に弧を描く。
「どうしてそういう話になるの、」
「さぁな?」
むっと眉間に皺が寄るのを遮って、一際低く囁いた。
「アンタが嬉しそうだから、かもな」
「…………、」
不機嫌な顔はそのままだ。けれど、頬がふわりと赤くなっているのが判る。何度か触れた、懐かしい気配。
「――ホントのこと言えば」
「…何、」
「見たかったんだよな、俺も」
だから何を、と、眇めた視線ひとつで訊いてくる今日子の、無防備な手を取る。不意打ちにぱっと上げられる顔。
緊張を孕んだ瞳は、ああ、まるで少女みたいで。
「アンタの、『一世一代の晴れ舞台』ってヤツ」
「……い、」
「今更だなんて、言わないよな」
まさに言いかけていたらしいその口の、花びらのように開きかけたままの唇。
ああキスしたい、と思って、けれど口付けは手の甲に静かに落とした。指輪のひとつもない、細い指の、愛おしいかたち。
「今日子さん、」
久しぶりに呼ぶ、名前。胸の真ん中がきゅうっとなる。
「告白します。俺は」
目を覗き込んで笑った。驚きに見開かれたままの、丸い、強い、美しい瞳。
大丈夫。聴いてくれる。どんな告白だったって、流したりせずに、ちゃんと。
「アンタが好きでした。言ってなかったけど、ずっと。今でも好きです。だから、」
だから、どうか。
「結婚してください。お願いします」
言いながら、深く深く頭を下げる。
「……」
返事はない。なかったけれど、手を振り解かれなかったことに、ほっとする。
ひとまわり小さな、少しひんやりとした手。あの頃と同じ、優しい感触。
放さなければ、よかった。たとえ彼女が拒んでも。
「…………ここまでバカだとは、思わなかった」
困り切った顔をして、けれども頬を温かに染めて、今日子は眉を寄せて笑った。――笑った。
「いいんだ、バカでも。あんたが好きだって、また、気付いたから」
「また?」
「ん。また」
なかったことに、しようと思った。――あの夜の後。特別な女だ、と、思っていた。
だから、ありふれた関係になんかなりたくなかった。ならないと思っていた。あの一回は間違いだったと、ずっとそう思うようにしてきたのだ。
間違ってたのは、こっちだった。
なかったことになんか、ならなかったのだ。だってまた、恋に落ちる。何度諦めたって。何度遠ざかったって。何度でも。
「……なんで、急に、」
「今日の主役」
「え?」
「ったく、サスガっつーかなんつーかな。手回しのよさも思い切りも見事。アンタそっくりだ、あーいうとこ」
「……うちの娘は、一体なにを仕出かしたの、」
「『私には確信がないけれど、母にはあると思うので』だと」
「……?」
「『母がちゃんと諦めてくれれば、お色直しのときのエスコートを、お願いしたいと思うんですが。宜しいですか、お父様』」
「…………!」
「って、な」
流石に、二十歳そこそこの小娘の物真似は自分でやっててもぞっとしない。肩を竦めて笑って見せて、それからゆらりと、今日子の瞳を覗き込んだ。
ああ、似ている。女王様に生き写しだ、と、幼い頃から評判だった、今日の主役の美しい花嫁と。
「……言ってないのよ」
随分長く感じられた数秒の後、今日子から発せられたのは溜め息だった。小さな戸惑いと、呆れの混じった柔らかな溜め息。
「何を?」
「父親が誰かなんて話。あの子にも、……他の人にも、言ったことなんかなかったのに」
のに、という逆接の後ろに続くのは、「なのに、どうして判ったのかしら」なのだろう。直接的ではない肯定。それはつまり、受諾だ。
目を伏せている今日子の、栗色の髪に手を触れる。かつてより細く、幾らか艶も失せた気がする。それでも、懐かしい今日子の香りがした。花を思わせる微かな匂い。
「『ちゃんと諦めて』くれましたか、おかーさま?」
「……貴方に、そんな風に呼ばれる筋合いはないわ」
「今日子」
「…………」
頬をますます赤くして、ぷいっと横を向いてしまう。伏せた目元にも、不満そうな口元にも、かつてのような若々しさはもう、ないけれど。
「――かわいい、」
「…目がどうかしてるわよ、」
「してない」
ああ、もう、堪らない。きゅっと抱き締めると、諦めたように視線がこちらを向いた。昔よりも深く、柔らかくなった眼差しの色。
「今日、一緒に式挙げちまうか」
「またそんな無茶、」
「ヴェールとさ、ブーケだけ主役から借りてさ。あ、ブーケトスのときにもらえばいいのか?」
「……もしかして、『誰も予想しないようなとこ』って」
「あ」
思わず顔を見合わせて、数秒黙って、それから同時に吹き出した。
「っは、サスガだわ、アンタ以上だ、そーいうとこ!」
「莫迦言わないで、貴方に似たに決まってるでしょ、」
「言いますとも。バカですから!」
「開き直らないでよ」
「いいんだって、」
窓の外の空はますます青い。したたかな今日の主役が、高々とブーケを投げ上げるまで、ほんの数時間を残すのみである。
[2013年5月]