冷えてなんか
「あ、」
声が零れたのは、触れられたからではなかった。
ぬくもりを感じたからだ。どこもかしこも氷のように冷たいのではないかと勝手に思っていた、この男に。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。何度も自問する。始まりからここまでを、途切れ途切れになる意識の中で辿る。
わからない。何度終わりに辿り着いても、そこにある筈の結論が見えない。
わからない。どうしてこの人と、――こんなことに。
抱き締められた胸は熱かった。心臓の音が聞こえた。長い指が髪を絡め取り、唇が何度も重なった。
唇が触れるのは、はじめてではない。かつて、一度。一度だけ。あのとき。あのときはまだ、――あのときは確かに。彼を嫌っていた。憎んでいた、蔑んでいた、警戒していた。
抱いている気持ちは負の感情ばかりで。なのにどうして、泣いてしまったのだろう。怒るのではなくて。
「…あぁ、」
声が溢れる。吐息が流れる。想いが、涙が、零れてしまう。唇が涙を拭った。温かかった。目を閉じても判る、薄い、形のいい唇。
もっと、冷えているのだと思っていた。それなのに触れる手が、息が、唇が肌が、温かくて――熱くて。
高くなる心臓の音。血の流れが速い。自分も、そしてきっと、彼も。
「――――、」
彼が名前を呼ぶ。あの低い、滑らかな声。涼やかを通り越して冷ややかとさえ呼んでもよかったのに、なのにその、声が。
声が掠れて。熱を孕んで。今にも、融けて、落ちそうなくらい――
あ。
落ちてきた。融けてしまった、温かな雫。自分のものの筈はない。だってそうなら、こんな風に額には、落ちない。
持ち上げた視線が空中で揺らいだ。呼吸が余計に浅くなった。
どうして。
どうして、泣いてしまったの。私だけじゃなくて、貴方まで。
「――――、」
繰り返し、呼ばれる名前。込み上げてくる熱。声が溢れる。吐息が零れる。想いが、涙が、止まらなくなってしまう、
――それは、貴方も?
「あ、あ、あぁ」
わかってしまった。わかってしまった。抑えようもない涙の正体。
融けてしまったから。貴方の熱で、そのぬくもりで、指先の温度で、融けてしまった。
忘れてしまう筈だったのに。胸に刺さった氷の棘。冷たく凍えた銀色が、貴方に触れて、融けてゆく。
「――――、」
ならば、貴方のその涙は、……ああ、貴方のその涙も。消えて行く棘の、名残だと。
わかってしまった。わかってしまった。ああ、ああ、ああ!
◆
「――――。」
彼が名前を呼ぶ。低く静かな、なだらかな声。
もう大丈夫。わかってしまった。突き刺さっていた氷は、融けてしまった。だからきっともう、大丈夫。
寒さに凍えたりはしない。ひとりでも。ひとりだけでも。もう、二度と、会えなくたって、きっと。
冷たさに耐える季節が終わり、やがてまた春がやってくる。
[2012年11月]