ナは名古屋のナ


 連休の谷間、郊外電車は空いている。小さな無人駅のデザインは無駄に近未来的で、降りたらますます現実感が薄れた。
 それでも春の道は穏やかだ。桜並木の間をゆっくりと歩く。すっかり葉桜ではあるけれど。
 前を行く背中から、細く白くゆらゆらと煙。慣れたにおいに顔をしかめる。
「路上喫煙禁止」
「じゃ・ないんだなー、此処は」
 にやりと振り返る横顔に、中毒者、と罵りの言葉を投げて、すいと風上に距離を取る。
「相っ変わらず潔癖だよなぁ」
「普通だろ」
「お前くらいの歳ならむしろ、こっそり自分も吸ってみるのが“フツー”だぜ?」
「『自分の常識は他人の非常識』」
「ごもっとも」
 副流煙はごめんだが、軽口の応酬は嫌いじゃない。
「そこの歩道橋で渡んぞー」
 後ろから掛けられた声に、斜め前方の建物を指差すことで答える。煙草の煙と、頷きの気配。
「こんな時間から逢い引きってのもなぁ」
「アイビキ、てすげー響きだな」
「だってそうだろ、」
 どこに行くのかと訊いたら、ちょっと顔を見にな、と言ったのだ。誰の、と重ねたら、昔の女、と続いた。
 からかうような光を目に宿したまま、そーだお前も来いよ、だなんて言い出すのだから呆れてしまう。それで、頷いて着いてきた。
「今更邪魔だとか言うなよな」
「言わねぇっての!」
 ひらりと手を振る横顔はまだにやついていて、そのくせ否定しようもなくいい男だから腹が立つ。 42歳は厄年だそうだが、この男には何処かの女神が、勝手な身贔屓でご加護を施してくれるのに違いない。
 ガラス張りの大きな扉、朝の光が射し込むエントランスを通り抜け、受付嬢にさらりと手を振って、「←展示室」と書かれた通路を過ぎる。
 まだ人影のない室内。高い天井、白い影。なだらかなラインで切り取られた艶やかな黒い御影石の、鏡のような表面に、よく似たふたりの影が映る。
「…よぉ。来たぜ」
 甘ったるさすれすれの柔らかさで、久々に逢う“彼女”に声を掛けるのを見ている。隣で。並んで。至近距離で。
 滑らかな御影石の台の上、凰呀AN-21の冷たいほど白い肌に、伸ばされた指がそっと触れる。
「だからやめろって、展示品に触んの」
「せっかく会いに来てんのに、触ってやんなきゃ拗ねんだろ?」
 ただでさえ難しい女なんだしなコイツ、だなんて、誇らしそうな顔をする。
「……言い付けるぞ」
「許可とってるもーん」
“展示品に触ってもいい許可”? それとも、“定期的に昔の女に会いに行く許可”の方だろうか。まあどうせ両方なのだろうが。
「どうせなら乗ってやったら。放っておくと拗ねちゃうんだろ」
「そ。乗ったら乗ったで我侭言うしな」
 ホントめんどくせー女だよな、と続ける横顔の緩み方といったらどうだ。顔のつくりが似ている自覚があるだけに、見ているこっちが面映ゆい。
 でも、と、ちょっぴり棘を含ませた声で割り込む。
「走るんだろ、夏のイベント。母さんが言ってた」
「ん? なんだ、知ってたのか」
「だったら夏は、おれが乗りたい」
 けっ、とわざとらしい声を上げて、そっくりな顔をした父親は肩を竦める。
「よっく言う! この気難しい女王さまが、俺以外の男なんざ気安く乗せるワケねぇだろーが?」
「新しい女がいる癖にそれこそよく言ったもんだよな……」
「マメに会いに来てフォローしてるから大丈夫なんですぅー」
「とか思ってるのは自分だけなんですぅー」
「だけじゃないですぅー!」
「勘違いですぅー!」
 いー、と歯を剥き出して威嚇し合う父子の姿に、受付嬢たちが揃って吹き出すまであと2秒。
 アオイ博物館エントランス付近、シンボルゾーンに鎮座まします凰呀AN-21の“昔の男”が繰り広げる、大体ありふれた光景である。

[2014年5月]