君の手、彼女の爪


「どっか切った?」
 そう声を掛けると、はっとしたようにみきが顔を上げた。猫のように大きな目を瞬かせて、慌てたように加賀を振り返る。
「いや、そんなんじゃないけど、」
「そか? ずいぶん深刻な顔してっからよ、怪我でもしたかと思ったぜ。ほいよ、差し入れ」
 持って来た缶コーヒーを手渡す。
「ありがと。うわぁ、あったかいね。助かる」
 春だというのに急に冷え込んだここ数日、差し入れといえば温かい飲み物というのが定番になりつつあった。 オーナーの今日子から届けられる差し入れを、軽口と共に配って回るのが大抵加賀の役割で、 飲み終わったあとの空き缶を、一箇所に集めて片付けるのが大抵は新条の役割。
 テスト走行以外の時間は割と余裕のあるドライバー連中と違って、メカニックのみきは四六時中忙しいはずなのに、 それがぼんやりと自分の手のひらを見つめて俯いているのだから、加賀ならずとも心配になるところだった。
「冷めねぇうちに飲んじまおうぜ。みきちゃん今、ヒマなの?」
「ん、まあ、ちょっとした隙間時間ってヤツ。前の方の作業待ちだから、今のうちに休んどこうかと思ってさ」
 ぱしゅ、と軽快な音を立てて缶を開けると、立ちのぼる匂いにみきは目を細めた。
「この缶コーヒー、好きなんだ、あたし。甘過ぎなくてちょーどいい」
 甘いものギライを公言する加賀はいつもブラックしか選ばないので、みきの言うような他メーカーとの違いは判らない。 ただ、レギュラーコーヒー派である今日子が気に入って買っているのだから、他のところよりも美味いのだろうという程度の認識はあった。
「新条はいっつも、コレだと物足りないって言うんだよね。 あたしに言わせれば、アイツが気に入ってる奴の方が甘過ぎて驚いちゃうんだけど」
「相変わらず、仲のよろしいことで」
 にやにや笑いを浮かべてみせると、からかわないでよ、とちょっと唇を尖らせる。
「実際、うまく行ってんだろ? ここんとこ新条もわりとゴキゲンみたいだしよ」
「……うん、まぁ」
 言いながら微かに目線が落ちるのを、おや、と思いながら見ていた。と、みきが不意に思い詰めた瞳で振り返る。
「あのさ、加賀、」
「んー?」
「あの、……女の子の、手、って、どう思う?」
「……手ぇ?」
 突然何を言い出すのやら。飲み込めずに目をぱちくりさせると、みきはちょっと焦れたようにして言い始めた。
「だからさ、その、男から見ると、……手、って、気になるもんなのかなって。脚とか、胸とか、髪が気になるみたいにさ」
「……そりゃ、人によるんじゃねーの? 確かに、付き合うなら手がキレイな子がいい、なんて奴もたまにゃいるけど……」
 でもやっぱ、人それぞれだろ。言わずもがなの結論を言い切ると、だよね、とみきは俯いた。
「おーい。……なんかあったのか?」
「……なんか、ってほどでも、ないんだけど、」
 けど、ってコトは、「ある」んだな。一瞬だけ考えて、すぐに結論を出して、加賀はひょいとみきの正面に座り込んだ。
「ナニ悩んでんの?」
「……悩むってほどじゃ、」
「なんか気になってんだろ? なになに? 俺まで気になっちゃうじゃん、こーなってくるとさ」
 気になりすぎて事故でも起こしたら、これってみきちゃんの責任だよなー、と続けると、流石にみきも苦笑した。 笑ったことで気が解れたのか、漸く重い口を開く。
「気にしすぎだと、自分でも思うんだけど、」
 そんな前置きを付けながら、作業着のポケットに右手を突っ込む。
「こんなモノ、もらったんだ」
 広げた手のひらに乗せられたものを見て、加賀はぱちくりと瞬きした。
 ひどく可愛らしい、小さなガラスのボトル。細長い蓋の付いたソレは、加賀の語彙の中で言えば、マニキュアの瓶、というものに当たる。 但し、瓶の中身は無色透明で、その代わり、何か色の付いた塊のようなものがいくつか沈んでいた。
「……なんだコレ、」
 みきの手から受け取って、眺めてみる。 よく見ると、塊と見えたものはころころと愛らしい形をしていて、淡い色彩と愛嬌のある角を持っていた。 幼心に馴染んだ形。口に含むと素朴に甘い、夏の夜店を思い出させるそれは――
「……コンペイトー?」
「そ。面白いでしょ。もちろん、ホンモノじゃないんだけど」
「初めて見んな、こんなもん」
 とはいえ、よく似たものなら見たことはある。無色透明なマニキュア瓶の中に、小さなドライフラワーが封じ込められているものだ。 まだ十代の頃、遊びに行ったガールフレンドの部屋で、そんな小瓶を目にした記憶があった。
「ちょっと変わってるよね。花が入ってんのならよく見かけるけどさ」
 頭の中を見透かされたような台詞にちょっと後ろめたさを覚えつつ、小瓶をみきに返す。 受け取りながら、みきは続けた。
「爪に塗るもんなんだって、コレ。マニキュアとはちょっと違って、……トリートメントオイル、って言うんだったかな」
「へぇ……」
 なるほど、だから色が付いてないのか。今更ながら納得して、頷く。
「こんなのをくれるってことは、……爪の手入れとか、そーゆーの、もっと気にしてほしいってコトなのかな、とかさ。 やっぱあたし、仕事がこんなだし、どう誤魔化しても爪も指もキレイじゃないから……なんか、ちょっと落ち込んじゃって」
「……はぁ?」
 僅かに声を落として俯いたみきに、無神経にも加賀は素っ頓狂な声を上げた。
「ってなんだよみきちゃん、これ、新条がよこしたってコトか?」
「……ホワイトデーだからって」
「うわ、らしくねぇ! 似合いもしねーもん贈るから、みきちゃんが要らんことで悩んだりすんじゃねーかあのバカ!」
「…………相変わらず発言に遠慮がないね加賀」
「だってバカだろーよ。アイツ、ほんっと考えが足りねーよな!  自分がコレを気に入っちまったってだけで、みきちゃんがどう思うか、なんてとこまでは気が回ってねぇんだろ」
「そう……なのかな」
「そーうだって。アイツがみきちゃんに文句付けるなんて、ありえねーもん。新条のベタ惚れっぷりっつったら、そらもう語り草だぜ?  なんなら語るか? 小一時間くらい」
「エンリョしとく」
 大袈裟に首を振って、それからみきは小さく微笑んだ。
「……ありがと、加賀。なんかちょっと、楽になった」
「べっつに、礼を言われるほどの話じゃねーでしょーが。ホントのことしか言ってねーぞ?」
「……それこそ、ほんとなの?」
「ホント。――アイツがみきちゃんのことを話す時はさ、たいてい、ってかいっつも、みきちゃんの自慢話なんだよ」
「……どんな?」
「魔法使いだって」
「え?」
「あんなにちっちゃくて、あんなに細っこいのに、信じらんないくらいに何でも出来るんだって。 なんかおかしいとか、どうも思い通りじゃないってとこを、みきちゃんが見てくれると必ず直るし、 直らないときは直るまで帰らずに粘って、最後にはなんとかしてくれるんだって。 うちのスタッフの、たぶん誰よりも小さい手だし、誰よりも細い指なのに、まるで魔法を掛けるみたいに直すんだ、って。 ……自分の手柄話かってくらいに、喋るんだぜ」
「…………」
「そーゆーヤツが、みきちゃんの手を気に入らないなんて思うワケ、ねーだろ?」
「……ん」
「新条が思ってんのは多分、気にしろ、じゃなくて、大事にしてほしい、ってコトだろうよ。自慢の魔法使いの手、なんだからさ」
「うん……」
 手の中の小瓶を見つめて、頷く。漸く、口元が綻んだ。
「ありがと、加賀。……うん、そーいう気が、してきた」
「気がすんじゃなくて、事実そーなんだって。な?」
「……うん」
 少しの間黙り込んだ後、みきは顔を上げた。ちょっとばかり照れくさそうに。
「ほんと言うとね、……ひがみっぽくなってたかもしんないや、あたし。 なんかこの一ヶ月、忙しい忙しいばっかり言って、あんまりちゃんと話してもいなかったし。 たまに会ったと思ったら、今日子オーナーへのお返し選びに付き合わされるしで、……ちょっと、妬いてたのかも」
「……へぇ?」
 今日子への、という一言に、加賀がぴくりと反応する。 気付いているのかいないのか、みきは相変わらずの口調で続ける。
「それがさ、ひっどいんだよ? 今日子オーナーへのお返しって、他の子たちへのお返しとは別に、真っ先に買うんだよ、新条。 それもすっごくよく考えてんの。PC作業で爪が傷むって言ってたから、なんとかしてあげられないかな、とか言ってさ。 ……たぶんそのときに、コレも見つけてたんだろうけど」
 軽く苦笑して、手の中の小瓶を弾く。
「結局今日子オーナーには、すっごい高価なマニキュア買ったんだよね。 ……たぶん、それが頭に残ってたからひがんじゃったんだ、あたし。ヤだな、被害妄想っぽい」
 ぺ、と舌を出すみきの台詞も、もうほとんど加賀の耳には入っていなかった。眉間に皺を寄せたまま、唐突に呟く。
「……どんな?」
「え?」
「だから、ソレ。新条が買ったってマニキュア。どんな?」
「え、どんな、って。……薔薇色の……んー、なんていうか、上品なオレンジがかった薔薇色の、パールの入った、キレイなやつ。 悔しいけど確かに、オーナーなら似合うだろうなって感じのさ」
「……アレか」
 零れた台詞を受けて、みきが目を丸くする。
「知ってんの、加賀?」
「初めて見る色だと思ったんだよなぁ……うー、このタイミングで着けてくるってことは、気に入ったってコトか ……くそ、新条のクセに、あの野郎……!」
 ついさっき見たばかりの今日子の指先を思い出して、思わず加賀は唸った。 ぼんやりしているようでいて今日子に対しては妙に優れたセンスを持っている新条が、こんな時には恨めしい。
 みきが呆れたような溜め息を吐いた。
「つくづく、よく見てんだね、加賀」
 上司のマニキュアの色なんて、一体誰が気にするというのだろう。 そんなとこまで見ている理由はただひとつ、――その人が、彼にとって特別だということに他ならないわけで。
「他人の仲を心配するより、自分の恋路をどーにかしたら?」
 すっかりいつも通りの声でそんなことを言う。
 一瞬、どう誤魔化そうかと目を白黒させた加賀の目の前で、みきは涼しい顔でコーヒーを啜った。


[2010年3月/for Ms. shiro as commemoration of 2000-hits]