8年分
背後を通り過ぎようとした人の気配が、たじろいだように足を止めた。ほんの一瞬。
それでも確かにその気配を感じて、今日子は伏せていた顔を上げた。
振り向く必要はなかった。氷の融けたグラスに映る、見慣れた顔立ち。端整というには生意気すぎる。精悍と言うには鋭敏すぎる。
いつも不敵で図々しかった強い目が、今は僅かに迷っている。声を掛けるかどうか。
「……莫迦ね、」
低く呟いて振り向いた。
「今更誤魔化せないでしょ」
「……あー」
視線を逸らして頬を掻く。馴染んだ仕草に笑いが漏れた。
「立ち止まっちゃった時点で、諦めるべきだったわね」
「そうすりゃ先手は取れたのにな」
苦笑で応えて、彼は今日子の隣に腰を下ろした。よく知っている煙草の匂い。
――懐かしいくらいだ、と考えて、今日子の笑いも苦笑に変わる。
「お忙しいでしょーに、こんなトコで呑んでていいんですか、女王サマ?」
「ずいぶんと懐かしい肩書きだわ」
全くだ、と呟きながら取り出した煙草もライターも、ぱちんと蓋を弾くその仕草も。見慣れていて、懐かしかった。
「ったってほんの――半年かそこら、か」
「そうよね」
昨年の冬以来の再会。共にいた時間に比べれば、ほんの僅かな空白。
どうしてこんなに、懐かしいのだろう。どうしてこんなに――遠かった、と、思うのだろう。
あれ以来、電話はかけていなかった。人から様子を聞くようなこともしなかった。
忘れた訳ではなかったが、忘れようと思うことさえもう止めていた。いつの間にか。
「どーですか、調子は」
「相変わらずよ、としか答えようがないけど」
文字通り、相変わらず、だ。
終わってしまったのだと諦めることと、それでも確かな気持ちだったと認めることとは切り離せなくて、
感傷とも希望とも名付けられないまま、いつしか当たり前のように一連の記憶を抱いていた。
息をすることに似た。浅い夢を見ることにも似た。当たり前の、相変わらずの想い。
「今回は――仕事? 休暇?」
癖のある広東語でオーダーを通し、彼は今日子の温い水割りを取り上げて訊く。
「もちろん、仕事。貴方は?」
「俺は気楽に高みの見物」
「大人しく見ているだけで済むかしら」
「聞き分けはいい方なんですよ、こう見えても」
言いながら、当たり前のような顔をして飲み干してしまう。
「聞き分けのいい子がする行動がそれ?」
「代わりは頼んでおきましたから」
てか、ちょーっと呑みスギなんじゃないですか?
今更そんなセリフを吐いて、今日子の顔を覗き込む。呆れるくらい懐かしい仕草。やりとり。
「仕事と仰るその口で、こんな強い酒呑んでるようじゃ」
「大きなお世話だわ」
「明日、早いんじゃねーの?」
「昼前よ。夜景を楽しむくらいの暇は充分あるんだから」
「ほんっと、相変わらずなぁ」
タイミングよく運ばれて来た代わりのグラスを受け取って、呆れ混じりの笑いを零す。
「また潰れる気でいるんなら、ちっとはエンリョしてくれよ?」
「それこそ大きなお世話。一度だって、どうにかしてなんて頼んだことがあって?」
「まー、頼まれた覚えはないですケドねー」
涼しい顔で睨み合って、それから二人で吹き出した。全く、冗談みたいに、懐かしい。
通り過ぎてきた季節の分だけ、変わってきたはずの心と体。
それなのにまるで既視感のような、この距離。この空気。眼下に広がる、香港島の夜景。
――それはひとつの始まりで、同時にひとつの終わりでもあった。遠い夏の夜の、記憶。
「……私、ちゃんと御礼を言ったかしら」
「なんの?」
「ここから部屋まで、運んでもらったことの」
目をぱちくりと瞬かせた後、感に堪えないといった口調で彼が呟く。
「……なんともまぁ、いまさら」
「だわね」
笑いを含んで頷き返す。
「それを言うなら、こんなところに来てしまうこと自体今更だわ、」
もちろん貴方もね。後半は口に出さずに目だけでからかう。
「ほんと、イマサラだな」
大袈裟なしかめっ面を作ってみせて、彼も深く頷いた。
漸く気付いたように今日子のグラスに自分のグラスをぶつけながら、懐かしいシチュエーションに乾杯、などと嘯く。
「あんときは、そりゃー大変だったんだぜー? 自分がどんなんだったか、記憶ある?」
「あるけど、……都合よく改変されてると思うわ、多分」
「なんじゃそら、」
けらけら笑ってグラスを空けて、悪戯っぽい笑みを零しながら彼は、真横のガラス窓を指差してみせる。
「そこの窓から俺を叩き出すっつったの、覚えてる?」
「あー……言ったかどうかは覚えてないけど、そうしたかった記憶はあるわ」
「ひでぇハナシ」
「ごめんなさいね。今更だけど」
「今は?」
「今? ……叩き出したいとは、思ってないわよ?」
「じゃ、」
その代わりに、どうしたい?
声を潜めることさえせずに、彼は笑ってそう言った。英語と広東語の入り混じるこの街では、日本語の囁きなど誰も、気にも留めない。
「そうね……もう少し、呑みたい……かしら」
「その先は?」
無邪気なくらいの口調で訊きながら、カウンターの下で彼の手が今日子の膝に触れた。
何でもないことのようなふりをして、――けれど隠せない何かを孕んで。莫迦ね、と彼女は目を細める。
「それこそ、今更だわ」
「イマサラだよな」
酔っているようには見えないのに、それでも彼の手は熱かった。手のひらが膝の丸みを包み、それからするりと奥へ滑っていく。
「そうね、例えば」
悪戯をたしなめる仕草でその手を止めて、カウンターの上に引き出した。指先を、絡める。焦らすように。
「こんなのはどう? ……『下に、部屋を取ってるの』」
「へぇ、」
猫のように輝く瞳を細くして、彼は指を絡め返した。身長はさほどかわらないのに、明らかに大きな、骨っぽい手。
触れている皮膚から、熱が広がっていく。
「そのセリフ、続きは?」
「……『ここで潰れてしまったら、また迷惑をかけるから』」
「から?」
額がぶつかりそうなくらい顔を寄せて、囁く。
「『いっそ続きは、部屋にしない?』」
「――上出来」
笑った瞳は、隠す気もない強烈な興奮に濡れている。絡んだ指先を強く、握られた。
「……呆れるくらい、今更だけどね」
「同感」
息を吐いた今日子の手を引いて、加賀は立ち上がった。背後に、美しい夜景が見えていた。
◆
扉が閉まると同時に口付けられた。いや、口付けたのは今日子の方だったのかも知れない。
とにかく、急き立てられるような興奮と速度の所為で、甘いはずのキスは噛み付くようなものになった。お互いに。
初めてではない。けれど慣れてもいない。探り合うというより奪い合うように絡める、舌。
強く吸い立てる音が耳を刺して、何も考えられなくなっていく。
背中に回された腕が性急に動いて、上着の裾から中に入り込んだのにも、気付くのが一瞬、遅れた。
あ、と思う間もなく、下着のホックが外された。不意に解放された重たい乳房が、ぶるん、と音を立てたような錯覚。
「――――っ!」
錯覚ではなかった。遠慮のない大きな手が、その柔らかな塊を掴んでいた。
むず痒いような感覚と痛みが混じり合って、今日子の背筋を駆け抜ける。
拒む隙も、悲鳴を上げる余地さえもなかった。片手で強く今日子を抱き締めたまま、実に器用にもう片方の手で翻弄する。
力の抜けかけた腰を支えるふりをして、熱を持った脚の間を押し付けてくる。生々しい感触にぞくりとして、今日子はきつく目を瞑った。
「……は、」
途端に、唇が離れた。乱れた呼吸のまま彼が首を振る。
「わり、……飛ばし、すぎた、」
「ばか、」
開いた瞳に戸惑い顔の彼が映って、思わず今日子は苦笑する。
「今更いい子ぶったって、」
遅いわ。
呼吸を鎮めるようにしながら、彼の首に腕を回して、抱き締めた。いたぶられていた乳房が柔らかく潰れる。布地越しの体温。
「いいからもう、続けたら?」
「……そーする、」
服の下から手を引き抜いて、彼は今日子を抱え上げた。ベッドまではほんの数歩。
その距離がどうしようもなくもどかしいと言いたげに、眉を寄せた彼の、横顔。ああ、色っぽいってこういうことね、などと思う。
「飛ばしすぎるくらいの方が、貴方らしいんじゃないの、」
投げ出されるとも押し倒されるともつかない動作でベッドに縫い止められた今日子が笑うと、荒い呼吸だけは隠せないまま彼も笑った。
「あんたは、」
既に乱れきってしまっている上着を器用に剥がしながら、今日子の耳朶を噛んで囁く。
「そーいう憎まれ口が、ラシイよな」
「懐かしい?」
「うれしい、」
遮るもののなくなった胸に頬を擦り付け、輪郭の崩れた声で彼は言う。言いながら胸の先端に、吸い付く。
抱き締めてやりながら彼の肌に纏わり付くシャツを脱がせる作業は結構大変で、気を取られていた今日子はその不意打ちにびくんと跳ねた。
「すっげ、敏感」
「見慣れてるでしょ、このくらい、」
「たまんね……」
そーいう憎まれ口がさ、と、同じセリフを繰り返して笑う。情欲の炎を宿した目。見慣れていたはずの、黒い、深い、瞳。
脚に絡まる邪魔な布地を蹴り捨てて、互いの手のひらが肌を探る。
じわりと立ち込める甘い匂い、強い熱を帯びた素肌の感触。触れている細胞同士が発火して、身体中へ燃え広がっていくような。
ああ、と零れた吐息は自分ではなく彼のもので、興奮しているのは自分だけではないのだと知ってほっとする。
「あ、」
首筋に落とされた唇を受けると、それこそ自分ではないような声が出た。シーツに擦れていた背筋が大きく反って弧を描く。
反応の良さに彼は笑い、それから直後、不意に何かに思い当たったように動きを止めた。
あ。今。
悟った。何故だか、分かった。酷薄に見えるくらい涼やかな笑みを浮かべて、今日子は彼の耳元に囁く。
「どうか、したの、」
「……いや、」
「心配になったんでしょ」
さっきまでの仕返しとばかりに耳に噛み付き、っ、と小さな声を上げさせたことに満足して息を吐く。
「訊きたいことがあるなら訊きなさいよ、」
見慣れない小さなピアスの感触を歯で確かめながら、言い募る。
「ね、何が訊きたいの?」
流し込まれた今日子の声に毒が含まれてでもいたように、上に圧し掛かった彼の身体が熱を帯びた。
覚悟を決めた、という口調で、呻くように答える。
「あんた、今、」
「なに、」
「……付き合ってる奴、いんの?」
零れた自分の笑い声を、苦笑と冷笑が混じったようだと思った。彼も同じような顔をして、笑った。
「今更だわ」
「イマサラだな」
「残念だけど、」
「……いんのか?」
「いないわ」
「残念なのかよ、ソレは」
からかい口調にしようとして失敗した、探るような声音。器用そうでいて不器用な彼の、そういう迂闊さは愛しかった。昔から。
「だって、久しぶりなんだもの」
「?」
「貴方を満足させてあげられるかどうか、分からないわよ」
「……ご謙遜を」
「相変わらずよね、」
「何が」
乱れた息の下なのに、間髪入れずに切り返す台詞。気侭に見えて緻密な彼の、そういう鋭敏さは好きだった。初めから。
「こっちに言うだけ言わせて、自分ははぐらかすところ」
「……そんなに気になってた?」
「ならないわ」
「…………」
は、と呆れたような吐息。
「どっちにしたって、やめるつもりなんかないでしょう?」
「そりゃそうだ」
そう、呆れたような。諦めたような。それは同時に、何かを認めて、そうして期待するような。
感傷でも希望でもない。息をすることに似た。浅い夢を見ることにも似た。
当たり前の、相変わらずの、いつの間にかこんなにも、積み重ねてきてしまった想い。
「ほんと、今更だわ。何もかも」
「イマサラだよな。……けど、」
やっと。
彼がそう呟いたので、今日子はそこで口を噤む。
きょーこさん。
らしくもなく震えたままの唇で、彼は今日子の名を呼んだ。
8年分の想いに震える、今更すぎる唇で。
[09年10月]