秋が終わり、冬が始まり
迂闊だったのだ。そもそも、外に出たらやけに風が冷たかったのがよくなかった。
人恋しい、などという単語が浮かぶよりも早く足は動いていて、気が付いたら目の前に「いらっしゃいませ」と完璧な笑顔。
今更踵を返して出て行く訳にも行かず、如何にも予定通りですよという顔でドーナツを3つも買ってしまってから、
黄昏の空を見上げて途方に暮れた。
新条にでも押しつけりゃよかったんじゃねーか、
やっとそう思い当たったのは残念ながらインターフォン越しに答える今日子の声を聞いたその瞬間で、
思わず役に立たない自分の頭を打ち付けたい衝動に駆られた。
「どうしたのよ?」
苛立ったような情けないような曖昧な気持ちを映した表情を見て取って、扉を開けた今日子が眉を顰める。
いや、別に何も、と肩を竦めてから、いつも通りに図々しく部屋へ上がり込んだ。
「何もない訳ないでしょ、大体、こんな突然来られちゃ……」
「来られちゃ、メーワク?」
「……迷惑ってほどじゃないけど、」
でもちょっと、焦るわ。
そう言いながらも今日子は微笑んでいる。
これくらいの我が侭なら許される仲だと、お互いちゃんと承知している、その余裕が見せている笑顔だった。
「焦るようなコト何にもねーだろ、きょーこさんちはいつ来てもキレイだし」
「そんなことが問題じゃないわよ、心構えっていうか……独りでいるときと、誰かを迎えるときじゃ、服装も化粧も違うんだから」
男の人はそうでもないのかしらね、と呟くように付け加えて、今日子はキッチンへ消えた。
突っ立ったままそれをぼんやりと見つめていた加賀に、座る前に上着を掛けて、手を洗っていらっしゃい!と指示する声が飛んでくる。
俺ゃ子どもかよ、とぼやきながらも言われた通りに支度をして、おやつを待つ少年のようにソファに腰掛けた。
「夕飯に誘いに来たの?」
「いや、」
ティーポットを運んできた今日子の問いに短く答え、台詞を続ける代わりにぶら下げてきた紙袋を開く。
カラフルな箱の蓋を開けた途端、油とシナモンの香りが広がった。
「飯じゃなくて、コレ。きょーこさん食べっかなーと思って」
「どうしたの、ドーナツなんか」
「……もらった」
一瞬言葉に詰まってしまった自分を内心で罵りながら、今日子の反応を観察する。
箱の中身を覗き込んでいた瞳がふっと細くなり、そう、と一言だけ呟いた。
信じていない。
当たり前だ、加賀が甘いものを苦手としているのは単なるファンでさえも知っている事実で、
だから彼に何かモノをあげようなんて人間が、ドーナツなど差し入れするはずがないのだった。
それでも今日子は問い質すようなことはせず、だったらひとつだけでも食べなさいよ、くれた人に悪いもの、などと彼を諭して、
これがいちばん食べやすいと思うわ、と選んだひとつを彼に差し出した。
「夕飯前にこんなもの食べてちゃ、いけないわね」
くすくす笑いながら、残ったふたつを自分の皿に取り分ける。
「きょーこさんも飯まだなんだ?」
「ちょうど作り始めるところだったのよ、貴方が来なければ」
言われてみれば今日子は長い髪を珍しくひとつにまとめているし、キッチンテーブルには外したままのエプロンが掛けてあるのが見える。
「……スイマセン」
ちょっと首を竦めた加賀に、別に責めてる訳じゃないわ、と告げて、今日子はまた笑った。
白い手がしなやかに動いて、カップに紅茶を注いでゆく。湯気に乗って広がる華やかな匂い。
ぼんやりと眺めていたらふと顔を上げた今日子と目が合って、加賀はらしくもなくたじろいだ。
「そういや、もう11月なんだな、」
誤魔化すようにそんなことを言って、立ち上がった。外の様子を探るふりをして、窓際に立つ。
いつの間にかすっかり黄昏の光は去って、外は深い闇に沈んでいた。
「そりゃそうよ、もう今年のWCPも決まったし、来期に向けて動き始めてる時期じゃない。貴方だってそうでしょう?」
可笑しそうに笑って紅茶のカップを手に取る彼女を、ガラス窓の反射を通じて見つめる。
不意打ちで訪ねたから、彼女が言うところの「独りでいるとき」の恰好なのだろう、今日子はくつろいだ普段着を着ている。
薄く滑らかな、上質のセーター。秋色の重たい空に相応しい、深くて静かな灰色のカシミア。
いかにも柔らかそうで、暖かそうで、うっかり触れてみたくなる。その薄さに覆われているであろう彼女の、見たことのない肌にも。
「加賀くん? どうしたの?」
「……いや、帰り、寒そうだよなーと思って」
当たり障りのない返答をして、ソファに戻った。今日子を真正面から見つめることになる、馴染みの位置。
らしくもなく、落ち着かない。碌な言い訳も用意せずに訪ねてしまったことが後ろめたいのだろうかと、胸のうちに問いかけてみた。
否。そんなのは些細なことに過ぎない。実際、ドーナツなんて陳腐な口実は、とっくに今日子に見破られている。
ああ、そうだ。後ろめたいのはそんなことじゃない。彼女の着ている、薄手のセーター。その所為だ。
――自分の目に、劣情の色が滲んでしまってはいないだろうか。本当はそれが不安なのだ。
認めてしまうと、苦笑が漏れた。馬鹿だな、俺。今更ナニ考えてんだか。
「そうね、結構風も強いみたい。車で来てるの?」
「いや、バイク」
「それじゃ確かに寒そうだわ。コート貸してあげましょうか」
「……誰の?」
「私の。だから、女物だけど。サーモンピンクに黒の千鳥格子だけど、それで良ければ」
言いながら想像した加賀の姿が可笑しかったらしく、今日子は肩を震わせて笑い出した。
自分で言っといてそんなに笑うなよ、ひっでぇな、と軽口を叩きながら、その震える肩の細さに唇を噛む。
やめてくれ、そんな風にされたら、手を伸ばしたくなるじゃないか。
曖昧な関係が長すぎて、時々、どう振舞ったらいいのか分からなくなるのだ。
幾度も夢を見る。夢に見る。彼女を自分のものにする、夢。その生々しい感触に衝き動かされて、しばしば制御が利かなくなる。
麗しの女王さま、扱いにくいご令嬢、そんなんじゃなくて。
薄いカシミアの布地越し、ふっくりと優しい形を見せている丸い胸の、柔らかで重たげでけれど誇らかな、曲線。
自分とは違う、男とは違う、か細くてしなやかな身体。
辿り着くのはいつも、当たり前でありふれた結論。そう、このひとは、おんなのひと。
男が女に対して当然すべき振舞いを、彼女に対してもすればいい。それだけのことのはずなのに。
迂闊なくせにここでは立ち止まってしまう自分を呪いながら、勘弁してくれよもう、と呟いて、加賀は温かな紅茶を啜った。
[2009年11月]