街角キッス
空がものすごく、青い。日曜日、快晴、上空の気圧は安定していて、穏やかな一日になるらしい。完璧すぎる外出日和だ。
覗き込んだ腕時計は午前7時32分を示している。待ち合わせは9時だから、今から準備すれば十分間に合う……十分すぎるか。
そこまで考えて、ま、とりあえず、と呟いたアルマはベッドから降りた。時間があって、悪いということもないだろう。やるべきことはたくさんある。
まず着替える。牛乳とパンで朝食を済ませる。顔を洗って寝癖を直して、ちょっと念入りに歯を磨く。財布の中身を確かめる。ルリに渡された待ち合わせ場所のメモを読み直す。
時計を見る。もう一度鏡の前に立つ。髪を整える。「いー」と言ってみる。財布をポケットにつっこみ、いつも履き慣れた靴を履く。
腕時計は8時38分。うん、ちょうどいい時間だ。開け放った扉の向こう、清々しい春の空気を胸いっぱいに吸い込んで、アルマは颯爽と家を出た。
バス停までの道を、うきうきした気分で歩く。通学にはミニバイクを使っているアルマだが、ルリと出掛けるときには大抵、最寄りのバス停まで徒歩だ。
初めのうちは、バイクの後ろにルリをちょこんと乗せて出掛けてみたこともあったが、万一のことがあったらと思うとだんだん不安になってきて、
結局ほんの数回だけでその習慣はおしまいになった。
時刻表に縛られる分、バスや電車には多少の不便さを感じることもある。窮屈だったり変に注目されたり、乗り降りのときに額をしたたかぶつけたり、長身ゆえの苦労もたまにある。
それでもアルマが公共交通での移動を割と楽しいと思っているのは実は、慣れない乗り物の物珍しさに、子どものようにはしゃぐルリを間近で眺めていられるからだったりもする。
――なんていうのは、本人にはまだ内緒だけれど。
はしゃいでいるルリはかわいい。クラスの女子たちが言うように、「お人形さんみたい」な容姿だけでも可愛いのだけれど、笑ったり、びっくりしたり、
照れたりちょっとふてくされたりするとなんだか、もっと可愛い。
胸がきゅうっとなってほっぺたがむずむずしてくるような、この感覚をどう言い表したらいいのか、アルマには未だに分からない。
だから、かわいい、という一言で確認しているのだ。待ち合わせ場所の、混雑する駅の改札前で顔を合わせた今日のデートのはじまりでも、
うん、やっぱりかわいい、と心の中で頷いて、落ち着かない気分を抑え込んだ。
「おはようございます、アルマさん!」
聞き慣れた声が弾けて、花が咲くように笑顔が広がる。春らしい淡い色合いのスカート姿。ひらひらと揺れる裾の優しさが、低い位置でゆるく束ねた髪にぴったりだ。
「……アルマさん?」
不思議そうに覗き込まれて、ようやく自分が数秒間硬直していたことに気付いた。慌てて笑顔を作る。
「お、おはようっ。ごめん、ぼんやりしてて」
「春だもの。ぼーっとしちゃいますよね」
くすくすと笑う様子に救われながら、アルマは内心、小さな溜め息を吐いた。
春。
新しい日々のはじまり。
短い春休みの、最後に残された数日。
今日こそ、と思っていることがあるのだ。どうにかして越えたい、ちょっとした目標。
――デートの中で一度は、アルマからキスをすること。
挨拶代わりにごく軽くしてしまえば、もしかしたら出来るのではないかと、期待したのはどうやら浅はかだったらしい。
唇に触れたことは、今までにも何度かある。ごく自然に手を繋げるようにもなった。バレンタインチョコと一緒に贈られた、
頬へのキスをきっかけに、ゆっくりではあるけれど確実に、距離は縮まっているだろうと思う。
ただ、なかなか慣れないのだ。照れるというより緊張する。抱きしめながらなんていうのはもちろん、息苦しくなるほどの長さのキスなんて到底出来そうもなくて、
触れるときは毎回、互いの幸運を祈り合うような小さなキスだ。しかもいつでも、ルリの方から。
……凛々しく逞しい、「シングルマザー」である母親に育てられてきたアルマである。
男のくせにだとか女の子なのにだとか思ったことも考えたこともないが、だが、いつも自分が「してもらう側」では、どうも落ち着かないような気がしてしまうのだ。
「守る/守られる」ではなく、「支える/支えられる」でもなく、「一緒に」いることが心地よいルリとだからこそ、特に。
だから今日こそは。
ただ立っているだけでわくわくする、こんな気持ちいい春の日には。
触れて、笑って、もっともっと気持ちよくなってもいいんじゃないのかな、だなんて、思ってみたり、するわけで。
「結構、混んでるなあ」
「こんないい天気だし、みんな、家に閉じこもっていなんかいられないのね」
「今日明日くらい、満開だって。バスの中で聞いた」
「楽しみ! 最高のお花見日和ですね!」
人で溢れかえる構内。ホームの向こうに降り注ぐ陽射し。長い春の日は、まだ始まったばかり。
電車を待って、電車に乗って、それから降りて、一緒に歩いて、お昼を食べて、少し休んで、また戻って、バスに乗って――。
いつできるかな。どこでならできるかな。怒らないかな、恥ずかしがらないかな、ちょっと驚いて、それから笑ってくれるんじゃないかな。
ほろほろと零れる桜の花びらのイメージ以上に、隣にいるルリの笑顔を眩しく感じながら、アルマはそわそわと腕時計を覗き込んだ。
[2012年4月]