鳴らないオルゴール


 古びたオルゴールがある。
 手のひらの上にちょうど収まるほどの大きさ、色は淡く薄紅色のかかった真珠色。
 小さな宝箱のようなデザインで、蓋に当たる部分の縁には、白い瑪瑙で波模様の浮き彫り。

 豪華だが、音は鳴らない。鳴らそうと力任せにぜんまいを巻いたら弾けてしまった過去があるから。
 蓋も開かない。開けたところで何もない。
 けれどこの箱は、捨てない。

 子どもの頃、母親からもらった。綺麗な母親の綺麗な机の中の、綺麗な綺麗な小箱。
 ねだったら簡単にくれた。いいの?と訊いたら、いいわ、お誕生日だからあげる、と言われた。
 こんなものを欲しがるなんて、おかしな子ね。
 そういった口調は微かに冷たかったけれど、オルゴールが嬉しくてすぐに忘れた。

 蓋を開けると音楽が流れた。彼の知らない曲。ゆっくりと澄んだ、優しい、ちょっと悲しい音。
 今なら分かる。あの曲はトロイメライといった。夢、という名に相応しい、甘くてしかも儚い旋律。
 掴むことなど出来ない、消えていくのを惜しむことしか出来ない、――遠い、夢。

 あれはいつのことだったか。大事なものは全部、どこかにしまっておくことに決めた。
 鍵の掛かるどこかに押し込めて、閉じた蓋は二度と開かないようにして。

 ――大事なものは、何だったろう。掬んだ手のひらから零れ落ちていった、何か目映いもの。
 留めることなど出来ない、逃げていくのを惜しむことしか出来ない、何か。
 夢。甘い夢。奥の苦さを、消せない夢。

 そう、消えてしまった。失ってしまった、既に。
 だから、開けたところで何もない。音もしない。何も聞こえない。

 それでいい。
 囚われたら動けなくなってしまうのだから。
 苦しくて、悲しくて、一歩も先に進めなくなってしまうのだから。

 ――けれどこの箱は、捨てない。
 一度はこの中に、注意深く隠した夢がある。壊れないように、怯えながら。震えながら、そっと。

(酷い人だと、思っておりますわ)
 目も眩むほどの花の中、真っ直ぐに顔を上げて立つ、彼女の姿。
 逸らさずに見つめてくる、強い眼差し。
 負けない、と。
 いつだって真っ向から勝負を挑んでくる、猫のように輝く、瞳。

(本当に、酷い人ね、)
 詰る台詞と裏腹の、震える声。それでも逸らさない、眼差し。
 既に遠い、過去のこと。

 掬んだ手のひらから零れ落ちていった、何か目映いもの。
 それは彼女を傷付け、泣かせ、彼女の守ろうとしたチームを、彼女の会社をぼろぼろにし、
 同時に彼女に愛を教え、気付かせ、戸惑わせて、そして、――彼女の愛した男に、死と隣り合わせの勝利を、与えた。

 掴むことなど、出来なかったけれど。
 零れ落ちたその夢にも意味は、あったと思っていいのだろうか。

(酷い人ね)
 詰る台詞と裏腹の、――彼女の、優しさ。
 触れられなくても。結ばれなくても。他の誰かを、愛していても。

 そう、既に、消えてしまった夢。
 空っぽの箱。鳴らないオルゴール。
 けれど彼女が、それを鳴らす。

 もがいていてもいいのだと。願ったことは正しいのだと、そう、教えてくれる。
 何度も。何度でも。

 箱の蓋は開かないし、開けたところで中身は空っぽだ。
 あれほど望んだ彼女でさえも、弾けてしまったぜんまいのようにもう、残骸でしかない。

 それでも。
 胸の中で、音がする。

 夢見たことを、愛したことを、誇りに思っていいのだと――
 目映い記憶が、そう、囁く。

 独りきりで迎えるこんな朝でも。
 これからの毎日も、遠い遠い夜でも、ずっと。

 ずっと。


[09年11月]