名演技
――寝返りを打ったら柔らかな呼吸に突き当たった。とん、と音を立てるみたいに。その軽やかな感触で、目が覚める。
開けたばかりの視界を支配するのは笑いが込み上げるくらい無防備な彼女の寝顔で、思わずその額に口付けてしまった自分自身に、よくもまあ恥ずかしげもなく、と呆れる。
窓の向こうはまだ薄暗いようだった。室内の気温はやや低い。
ぼんやりした頭で、彼女は寒くないだろうか、と思い、半分無意識のまま体温を分かち合おうと抱き締めた。布団からはみ出していた肩が少し冷えている。
ひんやりした肌の上に手のひらを当ててじっとしていると、やがて体温は溶け合って、ふたりの間で一定になる。それは馴れ合いじみていて、どうにも物哀しくて、いつもほんの少し胸の奥をきゅっとさせた。
彼女は目を覚まさない。はしゃぎすぎたのだと思う。仕事が予定より早く片付いて、すっかり調子に乗った彼女は、数日前に反故になった冗談混じりの観光プランを本気で実行しようと言い出したのだ。
散々馬鹿にしたくせに。
唇を尖らせると、あら、馬鹿になんてしてないわよ、相手にしなかっただけじゃない、と微笑まれた。
……実際、大好きなお仕事と秤にかけられたら、彼の提案など大概、箸にも棒にもひっかからないのだが。
意外だったのは彼女がその映画に相当惚れ込んでいるらしいことだった。
何の資料も準備もなしに、スタートはこの大通り、それからここのアパートへ、石段を抜けて擦れ違って、髪を切って花を買って、スペイン広場でジェラート売りと……と彼女の指が地図を辿っていく。
……どうかしたの?
いや、よく覚えてんなぁと思って。……もしかして、セリフが全部言えちゃったりするわけ?
そんなはずないでしょ。
純銀製の鈴のような声で笑い、続ける。
言えるのは要所要所だけよ。一応英語でだけどね。
ははぁ。おみそれしました、女王さま。
王女さま、でしょ。
……そのトシで?
蹴るわよ。
すみませんでした。
そんなふうに。
いつも通りのやりとりを、いつも通りではない場所でする。いつも通りではない場所で、いつも通りではない台詞を言う。
清純可憐、純粋無垢な十代の王女さまになりきって、彼女が気取り、澄まし、驚き、うろたえ、最後には笑う。
馬鹿げているとからかいながら、結局彼も巻き込まれて笑う。
涙が出るくらい。胸が痛むくらい。
……そんなだったから、彼女の眠りが深いのも当然なのだった。昨日の王女さまよりも、もっと幼くてあどけない寝顔。
あまりにも綺麗で、両手に包み込んでどこかに隠しておきたくなる。誰かが壊してしまわないように。いつの間にか傷付いてしまわないように。
――何不自由ないように、見えるのにな。
鎧も仮面も外している明け方の彼女を見つめるたびに、気付くのだ。自分の辛さが彼女には分からないように、彼女の苦しみは自分には分からないのだと。
威風堂々の女王さまだって、眠れない夜はあるはずで、――それこそあの映画の王女さまのように、逃げ出したいと願ったこともあるだろう。
憧れを込めてなぞる台詞。銀幕の彼女を思い浮かべながら真似る表情。仕草。おどけた名演技の奥深くに潜んだ、古い苦い涙の跡。
分かってあげることも、救ってあげることもきっと、出来ないけれど。
彼女の髪の香りを吸い込んで、願う。
それでも俺のことを、……覚えていてほしい。いつか遠く、離れてしまっても。
――こんな気持ちは伝えられないから、だから意識するのは今だけだ。
夜が明けて彼女が目を開けるときには、いつも通りの図々しさで笑ってやる。それこそ、オスカーものの名演技で。
すっかり馴れ合ってしまった体温に、お馴染みの胸の痛みを覚えながら。
彼女の呼吸に合わせて彼は、ゆっくり、ゆっくり目を閉じた。
[09年7月]