熱暴走
こんなのはおかしい、と思う。
きっと何かのバグがあるのだ。正常な動作を妨げる何か。
その数十分の間のみきは、きっと誤作動を起こしているに等しい。
誤作動というより暴走かも知れない。壊れてしまわないのがいっそ不思議に思えるくらい。
初めて触れた時、「やっぱり」と思った。やっぱり、マシンみたいにキレイだ、と。
恐らくそれは褒め言葉ではないし、寧ろ多少倒錯した感想だと受け取られかねなかったから、口に出したことはなかったけれど。
彼はアスリートだ。
モータースポーツというやや特殊なカテゴリではあるけれど、他と同じく、揺るぎない真実がひとつある。
カラダひとつが、商売道具。
只でさえ良質でなければ話にならないその道具が、丹念に手入れされているのは、当然と言えば当然のことだった。
一流と呼ばれるドライバーたちを間近で見ていれば分かる。
重いステアリングに言うことを聞かせる為の上腕。非日常的な横方向の重力に耐える為の首筋。
小柄で均整の取れた骨格、過剰でも不足でもない筋肉、そしてそれらの扱い方。
立ち居振舞いの端々に覗く、彼らの身体の完成度の高さに、周囲は皆、魅せられるのだ。
彼の体は決して猛々しくはない。逞しいというのも少し違う。
荒さも粗さも、強さも剛さもない。敢えて言えば多分、勁い。
1000分の1mmを超える精度で組み立てられたマシンと同じように、一部の隙もなく作り上げられた姿が美しい。
時折、ひやりとするくらいに。
その美しさにかき立てられるのは、頭の芯でぼうと燃え上がる冷たい焔だ。
目の奥が目映く青く眩む。その挙動の全てを手の中に収めたくなる。
冷たすぎて熱いその衝動に駆り立てられて、みきは工具を握る。
この手で。
この手で、速度を与えてやるんだ。
あのマシンとこの男に。
それがみきの、彼に対する執着のかたちだった。彼に対する役割だった。
それが全てだと思っていた。こんな狂いが、生じるまでは。
充分に成熟した男女が深く関わり合いたいと思えば、「それ」は当たり前の行為だ。
躊躇いがなかった訳ではない。けれど、いつかはそうなるだろうと思っていた。
後悔はなかった。代わりにあったのは驚き。
自分が、そして彼が、こんな風に変わってしまうだなんて、という慄きにも似た驚き。
戸惑いと新鮮さと、柔らかな喜びに満ちた初めの数回が過ぎてから、少しずつその変化は訪れた。
皮膚の下の硬い弾力に歯を立ててみたいという衝動がまず最初。
自分とは違う匂いのする汗を味わってみたくなったのがその次。
舌は味だけではなくて感触まで味わえるのだと知り、それから、隅々まで感触を確かめてみたくなった。
唇だけでは満たされなかった。汗だけでは物足りなかった。
皮膚の裏側の粘膜まで、誰の目にも触れない内臓の奥まで、入り込んで舐め回して味わい尽くしてみたいと思うようになった。
こんなのはおかしい、と思う。
彼はアスリートだ。ここにあるのは走る為の体。
こんなにも美しく完成されている、速度を乗り移らせる為だけの肉体。
そこから、速さ以外のものを絞り出そうなんて、
そして絞り出したものでこちらの手や口や目や腹をいっぱいに、
べっとりと濃く青い彼の匂いでひたひたにしようなんて、
それはもうたぶんどこかが、狂ってる。
そう、こんなのはおかしい、と思う。
思いながら、口に含んだその硬さに歯を立てる。
汗と、何かそれ以外の匂いが鼻をつく。
彼からはいつも青い匂いがする。
草むらに夏の雨が降り注いだ後のような。強い生命力と若さを縒り合せたような。
それが好きだ。一瞬で身体が発火する。
あの冷たい青い焔ではなくて、身をよじるように赤い、赫い炎。
神経が焼き切れる。否定しようもなく濡れる。欲しくなる。求めたくなる。
汗だけではもう、足りないのだ。
もっと。
もっと、もっと、もっともっともっと。
ぐらぐら揺れる視界で見上げる。彼が笑う。見慣れない、外では見せない、どこか獣めいた表情で。
その数十分。
磨き上げられた金属と、駆け抜けていく風の匂いしかしない彼が、獣じみた生々しい顔を覗かせるその間だけ。
機械仕掛けの完璧から、引き剥がされて燃やされる。回路も理性も熔け落ちる。
鋼のようにしなやかな硬さを保ったまま、彼の体が残酷なくらい熱く生々しくなって、みきの動作を狂わせる。
彼が狂わせる。くるわせる。
みき自身には取り除きようのない致命的なバグを、眼から、喉から、肌から、指から、身体中のありとあらゆるところから、容赦なく流し込んでくる。
やめろ、お前は狂ってる、と、頭の片隅で誰かががなり立てる。
聞こえている。それでも、やめられない。
だってもう、どこかで致命的な誤作動がある。
ここまで狂ったらきっと、止められるのは彼だけだ。
はやく、ちょうだい。
声にならない声を上げるより早く、押し倒されて押し開かれて、突き刺されて抉り込まれて鳴く。
唯一自分を狂わせる男に、唯一の特効薬を撃ち込まれる矛盾。
耐え難く甘美なその理不尽に酔いながら、焼き尽くされるその一瞬に、みきは焦がれて鳴き続ける。
[2011年11月]