手のひらの世界
「あ」
「いらっしゃいませー、って、丹童子くん?」
カウンタの向こうで顔を上げたのは、鉱石部仲間の赤崎七海だった。トレードマークの丸眼鏡の奥で、瞳もまんまるになっている。
「……バイトって、ここだったんだ」
「うん、土曜日はね。ご注文はお決まりでしょうか?」
「えっと……コーラと、オレンジジュース」
「あ、一人で来てるんじゃないんだ。サイズはいかがいたしましょうか?」
「両方とも、Lで。……藍羽さんが、どっかその辺にいるんだけど」
「Lサイズですね、かしこまりました。……うん、見えない。埋もれてるね、ルリちゃん」
「藍羽さん、コンパクトだから……」
「ご一緒にスナックはいかがですか? ね、鏡くんは来てないの?」
「いや、飲み物だけで。……『まいてきた』って藍羽さん、言ってた」
「かしこまりました。お会計、2点で640円になりまーす。そっか、残念。今日はなに観るの? 『横須賀初恋物語』?」
「えっと、小銭ないんで、1000円札で。……『流星ポリス・リターンズ』……」
「あー、丹童子くんの好きなレトロ特撮のリバイバル。タイアップ商品おいてなくてごめんね……はい、360円のお釣りでーす」
「いや、そこは別に期待してないからいいんだけど」
「そう? まあ、楽しんでね! ドリンクは右端のテーブルからお受け取りくださーい。お待ちのお客様、どうぞー♪」
左手にコーラ、右手にオレンジジュースを受け取り、くるりと振り返ったロビーの、ほとんどは人で埋まっていた。土曜日の映画館は混んでいる。
とはいえほとんどの客は本日封切の大型ラブストーリーが目当てだから、混雑に晒されるのはロビーだけで済むはずだ。
人より頭ひとつ分以上高いアルマの視点からは、この人混みも大した邪魔にはならない。
巨大なポスターが幾つも並ぶ壁際に、ちょこんと立って待っているルリの姿も、もちろんすぐに見付かった。
「藍羽さ――」
呼びかけようとして、言葉が止まった。漸く気付いたのだ。ルリが、ひとりではない。ちょこんと突っ立っているその横に、見覚えのない男が一人。
時折ルリが視線を上げて、何事か答えているようだ。
変装してこっそりついてきた鏡……では、ない。眼鏡もかけていないし、髪は金色に染めているし、何より、発している空気の質が違う。
それでも、もしかしたらルリの知り合いかも知れないし。取り敢えず様子を見てみてから、と、アルマはふたりに数歩近付いた。
数メートルの距離に、数え切れないくらいの人。ざわめきが会話を遠くする。それでも、こぼれ落ちてくる言葉の端々は充分に拾える。
「いえ、中学生ではなくて、高校生です」
「そーなの? 1年生?」
「2年生です」
「見えないなぁー」
……まさかとは思うが、子どもがひとりでふらふらしてるなんて思われて補導されかけてるんじゃ。
思わず一歩踏み出したアルマの耳に、馴れ馴れしさを増した男の声が飛び込んでくる。
「てゆーかさ、今、ひとり?」
「? ……今ですか? そうですね、ひとりです」
いや違う、違うぞ藍羽さん。その人が言ってる「今」って多分もうちょっとスパン長いぞ。
内心でのツッコミは勿論、数メートル先のルリには届かない。溢れかえる人混みの所為で、気持ちは急いても近付けない。
「じゃあさ、ちょっと一緒に遊ばない?」
「……映画が、もう少しで始まってしまうのにですか?」
「いいよ、終わってからで。なんか予定あんの?」
「予定? 今日は、別に何もありませんが、でも、遊びに行くのならもっと早い時間からでないと……」
だから藍羽さん、違うって、微妙にズレてる! その人の考えてるのと君が思ってる内容だいぶ違うから!
早めようとした足を、騒ぎながら駆けて来た小学生の集団に止められた。賑やかな子どもたちの向こう側、不思議そうに首を傾げているルリとの距離はまだ遠い。
「あ――」
仕方ない。すっとひとつ息を吸って、大きめの声で呼びかけようとしたその途端。きょとんとしたままのルリの手を、その男が握ろうとするのが、見えた。
「……うわ!」
――ひきつったような声をあげたのは自分ではなかった。その男でもなかった。アルマのすぐ前で騒いでいた小学生たちが、驚愕に目を見開いて立ち尽くしている。
「え?」
いきなり、どうしたっていうんだ。呆然というより愕然とした顔、顔、顔。見開かれた瞳が見上げる先を辿ってみると、……行き着いたのは、自分だった。
「…は?」
自分の、胸の辺りに掲げた両手の、その両手が見事に握り潰している紙コップの、縁からも底からもぼたぼたと滴り落ちている中身の、
その行先の床の、惨めに広がる大きな染みの――
「…………うわ!」
びっくりした。いつの間にこんなことになってるんだ。うっかり慌て過ぎて握っていた両手を開いたら、ぐしゃっと音を立てて紙コップが落下した。
黙って見ていた小学生たちが、びくっと体を硬直させる。遠巻きに見ていた人々も釣られて一斉にびくっとなる。
「アルマさ――」
まんまるな目をしたルリが口を開くのが目に入るよりも早く、さっと誰かがそこに飛び込んできた。
「申し訳ございませーんお客様ー! 紙カップが傷んでたみたいで本っ当ーに申し訳ありませんですごめんなさーい! すぐお取替えいたしますので、あっ、これ、お手拭きにどうぞ!」
七海だった。きらっきらの営業スマイルを浮かべ、真っ白なタオルをアルマに押し付けると、せかせかと床を拭き始める。
なんだー、びびったー、ケンカになるかと思ったー、と口々に言い合いながら、人々が硬直を解いていく。ざわめきが戻ってくる。
ああ、気を利かせてくれたんだ、とアルマがやっと気付いたときには、ルリが近くまで駆け寄って来ていた。
「大丈夫ですか、アルマさん! ごめんなさい、私が飲み物を頼んでしまったりしたから……」
「あ、いや、大丈夫。……ありがとう」
最後の「ありがとう」は七海に向けてだ。手早く片付けを終えた七海はアルマに片目を瞑ってみせ、漸くその存在に気付いたらしいルリが「あ」と声を上げる。
「『流星ポリス・リターンズ』は、開場まであと5分ほどですから、カウンターにお立ち寄り頂ければ、コーラとオレンジジュース、またお出ししますね!
……どういたしまして、丹童子くん。目ぇ離しちゃダメだよ、ルリちゃん、可愛いんだからね」
終わりはこっそり囁くようにして、アルマの手からお手拭き代わりのタオルを回収すると、七海はさっさと引き上げて行った。見送りながらルリが呟く。
「バイト先って、この映画館だったんですね」
「土曜日だけここなんだってさ。……ジュース、ごめん」
「いえ! 大丈夫です、紙コップが不良品だったんじゃ、仕方ないですよねっ」
もう一回買いますか?とカウンターを指さすルリは、さっきの騒ぎの真相には、全く気付いていないらしい。
自分がどんな思惑の相手と話していたのかも、それを見ていたアルマがどうしたのかも、七海のありがたいフォローにも、ちっとも。
うん、と頷いてからアルマは、ルリに左手を差し出した。
「え……」
「もう、あんまり時間ないし。はぐれるとマズいしさ、……一緒に、買いに行こう」
「……は、はい!」
ぴょこんと頷いたルリが、慌てたように右手を差し出す。ちぐはぐな身長差で、繋ぐ。初めてではないはずなのに何とも気恥ずかしい構図だ。
でも、嬉しい。触れている手のひらからじわじわと熱が伝わって、頬まで微かに熱くする。
華奢で小柄で色の白いルリは、人形のように無機質に見える。けれど触れると、その小さな手が柔らかいこと、見た目よりずっと温かいこと、
育ちのよさを映して滑らかなことが、わかる。
そしてそれを感じている自分の手が、自分でも驚くくらいに強く、ぎゅっとその手を握りたがっていることもよく、わかるのだ。
初めっからこうして、一緒にいればよかった。なんのひっかかりもなしにそう思えるのはたぶん、触れている手のひらが温かいから。
頭より言葉より、この手がいちばん素直に教えてくれる、自分の気持ち。一緒にいられて嬉しい、という気持ちも――他の男に触られるなんて、冗談じゃない、と憤る気持ちも。
口に出すのはまだ恥ずかしいけれど、というかたぶんさっきのことも、ルリにはちっとも伝わっていないのだろうけれど、でもたぶん手のひらからきっと、今の気持ちは伝わっている。
んじゃ、ないかな。
なんて、ちらりと流した視線がぶつかって、ルリがくすぐったそうに笑う。胸がきゅっとして、頬がむずむずして、アルマも照れくさく笑う。
多くの人でごった返す、秋の日の午後の映画館。繋いだ片手を中心に、ほんの半径1メートルは、今は二人の世界である。
[2011年11月]