ピアノフォルテ


 玄関のアーチを潜ったら、ちょうど今日子が誰かを送り出しているところだった。 見たことのない顔。作業服。職業が推測しにくいタイプの人種だ。 加賀にもぺこりと頭を下げて去っていく姿を見送って、加賀は勝手知ったる女王様のおうちに上がり込んだ。
「さっきの、ダレ?」
「ああ、調律さん?」
「調律? ピアノの?」
「そう。よかったわ、終わってからで」
 先に連絡くれたらよかったのに、と言いながら、今日子は手際よく飲み差しのコーヒーカップを片付けていく。
「ピアノなんてあったんだな」
「昔、習ってたから」
「あー、やってそう…」
「よく言われる」
 ふふっ、と笑った声音に昔を懐かしむような響きが混じる。
「先生が怖くってね。今考えればたぶん、まだ30にもならない若い先生だったはずなんだけど、厳しくって。ああ、でも、綺麗な人ではあったわね」
「今日子さんでも怖い相手なんていんだな」
「そりゃそうよ。もう辞めるって泣いたことも何度かあったくらいだもの、結局、中学卒業するまで続けたけど」
「うちも姉貴が習ってたな。いつまで続いたんだかよくわかんねーけど」
 自分でも忘れてしまうくらいだが、加賀の実家は大きな総合病院を経営している。富裕層なのだ。 姉が向かっていたピアノも確か、アップライトではなくてグランドピアノだった。
「加賀くんは何か習ってなかったの?」
「そろばん。小3まで」
「ああ、一級持ってるのってその所為ね」
「あとは特に何もやってねーな。基本的に学校帰りは遊び歩いてた。今日子さんは、他には?」
「色々やらされてたわよ。そうね、ピアノ以外にバレエと水泳と、英会話と習字は覚えてる」
「うわ、過酷」
「今にして思うとひどいわよね。そりゃ子どもの頃は、比べる相手もいなかったから、あれが普通だと思ってたけど」
「役に立ってる?」
「うーん……どうかしら。少なくとも英語は日常的に使ってるわね」
「まー体力もそれなりについたんじゃねーの? あんた、働き方の割にタフだもんな。手書きの字もキレイだし」
「そう言ってもらえると、一応習ってた甲斐はあるってことなのかも。……加賀くんのは、しっかり身に付いてそうよね」
 習ってなくても金銭感覚自体は鋭いままだったんじゃないかと思わなくもないが、話の流れなので黙っておく。
「ピアノは?」
「……役には立ってないかもね」
「まだ弾けんの?」
「それなりには」
「聴きたい」
「え」
「なんか弾いてよ」
「なんかって、何を?」
「なんでもいい」
 そういうのがいちばん困るのよね、などとぶつぶつ言いながらも、食器を片付け終えた今日子はリビングを出て行く。 身振りで示されるまでもなく、後ろをぶらぶらついていく。入ったことのない部屋の、厚い扉の向こうにピアノ。ああ、やっぱりグランドピアノだ。
「碌に練習してないんだから、大したものは弾けないわよ」
「いーよ」
 蓋を開ける音も、ペダルを踏む音も微かで軽い。よく手入れされているのだろう。指慣らしの音階を弾き始めた今日子に、子どもの頃の姉の姿が重なって見える。 あ、これ聞いたことある。
「ハノン」
「よく知ってるわね、」
「姉貴がやってた」
 それほど仲が良いわけでもない姉が弾く、大して興味があるわけでもないピアノ。それでも、毎日のことだから聞き慣れた。 赤い教本、青い教本。メトロノーム。クロマティックスケール。
「……今日子さん、アレ弾ける?」
「どれ?」
「よく保留電話の『しばらくお待ちください』で流れる、♪〜♪〜♪っていうヤツ」
「サティ?」
 加賀の鼻歌をなぞるように、指先から柔らかい音が零れる。
「あー、そう、それ」
「確かによく聴くけど、その表現はどうなのよ」
「タイトルわかんねーもん」
 苦笑する今日子の唇が動いて、低く旋律をなぞる。そう、今日子はフランス語にも堪能だ。 知ってる。この曲のタイトルも。だからリクエストした。
「これも、お姉さんが弾いていたの?」
「弾けてなかったけど。CD持ってた」
「有名な曲だものね」
 ピアノ演奏に独唱がついていた。歌詞を読んで、赤面した。まだほんの、子どもの頃。 いつか大人になったら、こんなセリフを言い交わす相手が見付かるんだろうかなんて、早熟な頭で考えたものだ。
 Je te veux、あんたがほしい。おれのぜんぶはあげるから。
 声に出さないようにして、軽やかに踊る旋律を追い駆ける。もう暫くは知らないふりだ。タイトルも、この歌の意味も、互いの淡い思惑も。
 外の光に春の気配。今日子の紡ぐピアノの音色を聞きながら、加賀は小さく、わざとらしい欠伸をしてみせた。

[2015年3月]