衣々
――「やっちまった」。
目が覚めた瞬間、加賀の頭の中を埋め尽くしたのはその一語だった。
「ヤっちまった」なのか「犯っちまった」なのか、ああとりあえず「殺っちまった」じゃなくてよかったなー、などと、一瞬後には現実逃避さえした。
それでもうっかり声を立ててしまったりなどはしないところが、加賀の小狡さというか立ち回りの巧さである。
それどころか、目尻が裂けそうなくらい見開いてしまった目を、不自然じゃない程度にまですっと細めて狸寝入りに移行するという巧妙さだ。流石。
何しろ、目の前で半身を起してぼんやりしている人影が問題である。
衣服越しにしか見たことがなかったが、それでも見慣れたシルエット。
一部だけぴょこんと飛び跳ねた特徴的な前髪を含めて、葵今日子その人に間違いない。
うん、間違いないよな。夢でも、人違いでもなさそうだ。と、いうことはつまり、……やっぱり、やっちまった、というワケか。あああああ。
加賀は盛大に頭を抱えた(イメージ映像)。そう、あくまでイメージである。現実にいる本体はぴくりとも動かずに狸寝入りを続けている。薄目で今日子の様子を窺いながら。
昨夜は、うん、アレだ。俺もまあ、ちょっと油断してた。調子乗ってた。久しぶりだったし。
話のタネも腐るほどあったし、マスターが薦めてくれた酒も旨かったし。
春が近くて、なんだかそわそわする暖かさで、酔って頬を赤くした今日子から、いつもの香水の匂いがふわふわ飛んできて、こっちの頭までなんだかふわふわしてきちゃって。
何となく見上げた時計の針が23時で、あーもうこんな時間か、どーやって帰るのか訊いてやんなきゃな、なんなら先にタクシー呼んどくか、なんて考えたとこまでは覚えてるけど、
その先はぷっつりと截ち切られたように記憶がない。
いや嘘。ところどころは覚えてる。唇の端を伝う唾液の感触、絡んだ髪の影から届く甘い匂い。
悲鳴寸前の喘ぎ声、きつく噛み付かれた首筋の痛み。強くシーツを握る手を、無理矢理剥がして背に回させたことや、かがくん、と呼ばれて酷く安堵したこと。
アルコールに緩く引き延ばされた絶頂の、その瞬間に自分の口から零れた声、収まり切れずに溢れてきた体液の、ぐずぐずと濡れた生温い温度――
……って、つまり、それって!
「っ、うわあああああああ!」
狡猾さもそこまでだった。結局うっかり絶叫して起き上がってしまった。今日子がびくっと身動ぎして、強張った動きで加賀を見る。
うわぁ、「ぎぎぎぎぎ」って効果音ついてそーな首の動き。その首にいくつも赤い跡。あ、アレやっちゃったのも俺ですか。俺ですね。ごめんなさい。
こうやって見ると細いんだな今日子さん、首もだけど腕とか、肩とかも。
そう、昨夜も抱き込んだ時にそう思って、正直あんな華奢だなんて思ってなかったから、なんかもう必要以上に興奮したっていうか、
いや、それも嘘、初めっからめちゃくちゃ興奮してたわ、そうじゃなきゃまさかゴムもつけないとか、イくときに抜きもしないとか、まさかそんな、なぁ?
「…………、」
おそるおそる視線を動かすと、血の気の引いた顔で今日子がこちらを見ているのが判った。
くしゃくしゃになったシーツを引き寄せて隠している胸元がやけに色っぽくて、けれどその手が小さく震えているように見えて、いたたまれないことこの上なくて。
「……うぁ、その、」
取り繕うように開いてみた口からは意味のない言葉しか出てきやしないし、今日子の視線は凍り付いたように硬く動かないままだし。
思わずその場に正座した。ベッドの上に全裸で正座。なかなかにシュールだ。なんか浮気現場に踏み込まれた間男みたいな気分になってくる。いやそんな経験したことないけど。
「なんつーか……あの、」
あああああ駄目だ何も言えねぇ。諦めて俯いて、加賀はシーツとにらめっこする。
さらさらした感触の、上等なシーツ。昨夜はさぞかし清潔そうな、まっさらな白だったんだろうな、今はこんなになっちゃってるけど。
ところどころに残った不穏な染みの、一部にたぶんアレも混じっているんだろう。処理した覚えは加賀にはないし、この様子だと今日子もだから。
そこに思いが至って漸く、口を利く覚悟が固まった。
こくりと唾を呑み込んで、ああ、どうしよう、緊張する。
「……あー、えっと、」
ぎゅっと握った拳は膝の上、一瞬息を止めて震えを抑え込んで、それから、力一杯頭を下げた。
「――ごめんっ!」
あー、よかった、とりあえず言えた。自分の声がいつも通りに聞こえているかどうかは疑問だが、それでも、精一杯の努力で言葉を紡ぐ。
「…謝って済むような話じゃねーのは分かってるし、そう簡単には許せねぇだろうとも思ってるけど、」
言いながらちょっと自分で落ち込んだ。いや実際ヒドい話だし。
酔った勢いでどうこうしちゃうとか、しかも生で最後までやっちゃうとか、……もっと言えば同意を取った覚えさえないって辺りが何よりも不穏だ、不穏すぎる。
今日子のことだ、こういった事態に馴れているとは思えない(思いたくないとも言う)。
加賀だってそうだ、一夜限りの軽く明るくキモチイイだけのお付き合いの相手は例外なく自己防衛策を持っていて、
こっちが多少酔っていようががっついていようが、可愛らしい仕草でゴムを咥えて促してくれたり、手慣れた様子で着けてくれたり、
「ピル飲んでるから」なんてにっこり笑ってくれたりするもんだったから、何も心配したことなんてなかった。
けれど、今日子だ。いい歳して(何しろ加賀より年上なのだ、ほんの半年だけとは言え!)純真無垢の塊みたいな貞操観念を持つ今日子が、
恋人でも何でもない男と会うのにわざわざゴムを用意しているはずもない。
付き合っている男がいるとは聞いていないから、ピルを常用してるともちょっと思いにくいし、基礎体温なんてもんも気にしちゃいないんじゃないかという気がする。
いや、正直に言えば処女なのかも知れないとさえ思っていたけれど、うん、流石にそれはなかった。感度がよくってビックリした、つーか、若干妬けた。
そんなどうしようもない感情ばかり、覚えている。
今日子がどう応えていたか――嫌がってなかったか、怖がってなかったか、痛がってなかったか、辛そうじゃなかったか、そういう大事なコトは何にも覚えていないのに。
「……悪かった。ごめん。ホント、ごめん。ヤな思いさせる気は、……なくて、」
罪悪感でしどろもどろになる自分カッコワルイ。うん、やらかしちゃったこと考えればそれだけで既に十分カッコワルイんですけども。
「いや、つーか、その、こーいうコト……するつもり自体、なかったんだけど……くそ、あー、もう絶対二度としないようにするから、」
そう、絶対、しないようにするから。大丈夫だきっと耐えられる。ここまでずっと、抑えてきたんだ――「仲のいいトモダチ」を、こんなに上手に続けてきたんだ。
これからもできる。平気な顔を作れる。今日子さえいいと言ってくれればまだ、友人として傍にいられる。だからどうか、どうか、できれば。
「できれば、忘れてくれ。ごめん!」
もう一度、勢いよく頭を下げる。というか最早土下座する勢いで、シーツにずりりと額を擦り付けて数秒、押し殺した呻き声が落ちて来て、加賀はがばりと顔を上げた。
「うぇ、」
踏み潰されたカエルみたいな声が出た。だって今日子が、ぼろぼろ涙を零しているのだ。
怒るのではなくて、詰るのでもなくて、声を殺して泣いているなんて、そんな。
「〜〜〜っ、悪かったって! ごめん、謝る、何でもするから!」
おろおろと上げた声が届いているのかいないのか、今日子はやがて両手で顔を覆って、唇を噛んで俯いてしまった。
ちくしょう、なんでだ、そんな辛そうに泣くなんて、そんな。
「なぁ、今日子さん、ごめんってば、頼む、泣くなよ、あーもう……!」
だって今、そんな風にされたら。――抱き締めたくなってしまうじゃないか。
せっかく修復しようとしている「トモダチ」の立場を、またぶち壊しそうになっちまうじゃないか、ちくしょう!
カーテン越しに朝の気配。頼りなく泣き続ける今日子の声を持て余しながら、加賀は今度こそ盛大に頭を抱えて、呻いた。
[2013年2月]