愛があるから(Thanks to Power of Love.)


 23時34分。愛車からキーを抜き取った加賀城太郎は不機嫌である。
 水銀灯の明かりの下、助手席に投げ出された大衆紙を忌々しく見やる。 大きな活字、下品な色。「スピード破局」「事実上別居」「早くも新恋人」「年末から離婚協議中?」。 一際大きな「破局」の2文字を数秒見つめた後、黙ってそれを握り潰した。
 笑わせる、と、思う。今更こんな根も葉もない誹謗中傷に参ってしまうような加賀ではない。 が、その根も葉もない誹謗中傷の根拠を求めて押しかけてくる報道記者の群れには少々悩まされる。 無視したりいなしたり、時々逃げたり、朝っぱらから実に17時間以上の追いかけっこに疲れ切った結果、 眉間の皺が消えなくなったという訳だ。
 小憎たらしいタブロイド版を握り潰したまま、加賀は車を降りた。 広々として瀟洒な家の、見上げた窓にはまだ明かりが点いている。 目を細めてドアチャイムを押すと、数秒の空白の後、素晴らしい勢いで扉が開いた。
「いい加減しつこいって言ってるでしょう!」
「ぶ!」
 小声なのに恐ろしいほどの威圧感を含んだ台詞と共に、投げ付けられた大量の食塩。 反射的に身を折って咳き込んだ加賀の耳に、あ、と呟く馴染みの声が飛び込んだ。
「やだ、貴方だったの」
「……お元気そーで、何より」
 駆け寄って塩を払いながら、ごめんなさい、と今日子は眉を下げた。 スーツでこそないが室内着になる暇もなかったらしく、こんな時間だというのにまだ、丹念に施された化粧も落としていない。
「朝から皆、あんまりしつこいもんだから、てっきりまた来たんだと思ったの」
「誰か張ってんじゃねーの、今も。さっきの、写真なんか撮られてたらまたいいネタにされちまうな」
 ぼやく彼を部屋に入れて、彼女はちょっと唇を尖らせた。
「帰って来るなら、先に連絡くれればよかったのに」
「イライラしてて忘れてた」
「苛々?」
 握り潰していたタブロイド版を、ほら、と彼女に突き出す。
「なによ、これ……」
「ある意味笑いバナシで、ある意味ひっじょーに腹の立つ記事」
「どこの?」
 がさがさと音を立てて広げた途端、今日子の眉がきゅっと寄る。
「……『早くも新恋人』? 報特スポーツの、これ?」
「見た?」
「見出しだけね」
「写真は?」
「ざっとは」
「ねーちゃん」
「え?」
「姉貴。この写真に、俺と一緒に写ってんの、うちのねーちゃん」
「……えぇ?」
「向こうで会ったんだよ。息子が留学するから下見したいんだと。一日潰して、あちこち案内してやった」
「そう、なの……あ、本当ね、よく見ると確かに、そうみたいだわ」
「よっく見りゃ顔が似てんの分かんだろ、血縁なんだからよ。それを決め付けてこーいう書き方。すっげ腹立つ」
「この写りじゃ無理よ。だいたい、貴方にお姉さんがいるなんてこと、皆知らないでしょう?」
「だから腹立つんだよ! これは姉ですよ、なんて申し開きすりゃ、自動的に俺の実家だの経歴だの調べ上げられることになるんだろ?  だームカつく! ちきしょう!」
「ある程度はもう、しょうがないかも知れないわね、」
 溜め息を吐いて、彼女は加賀の腕に触れた。伏せた目が少し、ほんの少しだけ不安そうだ。
 あーもう、世間のバカヤロウ。加賀はますます不機嫌になる。 入籍してたった半年の、大事な大事な新妻に、こんな切なげな顔させる羽目になるなんて。
「どうして、こんな風になっちゃうのかしら」
「羨ましーんだろ、俺らの仲が」
 バカ、と小さく詰って、それでも今日子は抱き締めてくる加賀を拒みはしなかった。
「なーにが破局だ。離婚協議なんてしてねーもんな」
「ええ」
「事実上別居ってのはまあ、アレだけど」
「……まあ、貴方が帰ってくるのが二ヶ月に一度じゃあね」
「まさか俺の他に新しい恋人が出来たりしてねーよな?」
「冗談が過ぎるわよ、加賀くん」
 ぴしゃりと額を叩いて、それから漸く、今日子は笑う。
「お姉さんのことは、こっちから先手を打ちましょう。連絡しておくわ」
「ったく、がっかりだよな。過去の経歴がミステリアス、ってのも俺の商品価値なのに」
「いいじゃないこの際、隠すことないわよ。新恋人も何も、私なんかよりずーっと前から、貴方の家族なんだから」
「……まぁな」
 少し黙って、それから加賀は今日子を抱く手に力を込めた。
「ちょっと、どうしたの、」
「誰にも、邪魔なんかさせねーぞ」
「え?」
「こんなくだらねぇ記事、もー絶対書かせねぇ」
「書かせないったって……」
 貴方くらいになれば、こんなのつきものでしょ。今日子は諦めたように言った。けれど加賀は、少年のように頑なに首を振る。
「いーや、絶対書けねぇようにしてやる」
「何する気?」
「見せつけてやんだよ、あいつらがうんざりするまで」
 言いながら、ひょいと今日子を抱え上げる。当然、寝室へ連れて行くつもりだ。
「そんな程度の対策でいいの?」
 呆れた声で、けれど加賀の首に甘く縋り付きながら彼女が言う。
「いーんだよ」
「どこから来るのよ、その自信……」
「いーんだってば、これで充分」
「なんで、」
 言いかけた今日子に図々しいほどのキスをして、加賀は笑う。
「だってココには、愛があるから」
「…………貴方って人は、」
「愛こそスベテ。無敵なのです、ホント」
 ベッドに横たえた彼女の、酷く照れた顔を見ながら。
 だよな、不機嫌なんか愛が吹っ飛ばしちまったもん、と、加賀は思った。

[2010年6月]