早すぎる


「わからないわ」
 数センチの距離で今日子が囁いた。
 いやこれはきっと呟いたというべきなんだろう。
 返事を求められている訳ではないと知りながら加賀は答える。
「何が?」
「貴方が」
 気だるく天井を眺めていた目線を加賀の方へ流して、今日子は、ほう、と溜め息を吐いた。
 真夜中過ぎの月明かりに照らされて彼女の肌は青く見えるほど白い。
「昼には向こうへ帰るのよね」
「うん」
「いつ成田に着いたの?」
「8時過ぎ」
「なら、夕飯も食べないでここまで来たってこと」
「うん」
「おかしなひと」
 猫が布団に潜り込んで来るような仕草で加賀の胸に頬を擦り付けて、今日子は呆れたように言う。
「どこが?」
「無駄なことは嫌いなんでしょう」
「何が無駄?」
「たった一晩の為だけに太平洋を越えてくるなんて異常だわ」
 甘えているのでもからかっているのでもなく冷静に今日子は指摘する。
 水のような声。
「俺は満足したから、無駄じゃない」
「莫迦よ」
「不満だってんなら、もう一回」
「結構」
「ってぇ!」
 かり、と耳を噛まれて悲鳴をあげる。
「冷静になりなさいな、お互い初めての恋人でもあるまいし」
 薄く汗の気配の残る耳元で囁く。
 薄荷の匂いの声を流し込まれる。
 奥まで。
「参考までに伺っとくと、」
「なあに?」
 横目で見やったその先で今日子は淡く笑っている。
「何人目?」
「片手に収まる範囲よ」
「……そ」
「貴方は?」
「両手両足全部合わせりゃ収まるかな」
「過小評価じゃない?」
「少なくとも、」
 ころりと横を向いて今日子の瞳を覗き込む。
「こうも真面目にお付き合いするのは、初めてですんで」
「誇らしげに言うことじゃないわね」
 猫のように喉を鳴らして笑う。
「ついでに言うと、最長記録も更新中」
「他が短すぎるんじゃなくて?」
「そうとも言う」
「最低だわ」
 頬を挟んで額を寄せると、今日子の長い睫毛が瞬きの度に触れる。
 こそばゆいような感覚は皮膚ではなくてどこか内側。
「現在、10ヶ月半」
「そうね」
「何回寝たかな」
「一晩に複数回の場合のカウントは?」
「まとめて一回」
「なら、18回目だわ」
「ん」
「それがどうか?」
 さらさらと触れる息の気配。
 水に溶いた薄い蒼。
 彼女の肌のようにひやりとした感触。
「レース始めて14年、CFでは通算9勝」
「そうね」
「まだ飽きない」
「だから何、」
「あんたに飽きるにゃ、早すぎる」
「――あきれたひと」
 心底からのようにそう言って今日子は深く溜め息を吐いた。
「女もレースも、貴方にとっては同じこと?」
「そうじゃない」
「じゃあ何なのよ」
「同列なのはあんただけ」
「喜ぶべきなのかしら」
「もちろん」
 形良い鼻先に口付けて笑う。
「勝つためだったら、何でもする」
「当たり前よ」
「あんたのためなら、何でもする」
「嘘吐き」
「同列ってな、そういうコトだろ」
「……やっぱり、莫迦だわ」
「とにかく、」
 猫のような瞳を抱き込んで加賀は今日子を抱き締める。
「一晩だろうが二時間だろうが、あんたに会えれば無駄じゃない」
「あきれたひと!」
「通算回数、増やさしてね」
 諦めたらしい今日子は大きく息を吐いて天を仰いだ。
 月は青く見えるほど白く、真夜中を静かに照らしている。

[2010年7月]