名誉の負傷
気付かれたくなんかなかった、と言ったら多分、いくらか嘘になる。甘ったれだな、アタシって。
自嘲気味の内心が零れてうっかり縦皺の寄った眉間を、びしっと加賀の指先が弾いた。
「って! 何すんのさ!」
「んー? なんかハデに皺よってんなーと思って」
若いんだから気を付けなくっちゃダメよーん?と、誰の真似なんだかしなを作って見せたりする加賀に、ひとしきり呆れて笑ってから、素直に大きく溜め息を吐いた。
「あーあ、やっぱり加賀か」
「何が?」
「真っ先にバレんのがさ。……言いたいのは、コレのことっしょ?」
右足で、とん、とん、と地面を叩いて見せる。おどけていた表情がほんの少し真顔に近付いて、そして顔以上に真面目な声が耳朶を打った。
「やっぱしそーか。……どーした、そのケガ」
「怪我ってほどでもないんだけどねー」
後ろに跳ね上げた右足を掴み(これっくらいのことはちゃんと倒れずにやってのける。伊達にトレーニングバカたちの間に交じって過ごしてやしないのだ)、
身体を捻って眺めてみた。クルーソックスの端ぎりぎり、危うく隠れている赤い擦り傷様のもの。
「右だけ?」
「そ。若干カラダ歪んでんのかなぁ」
「靴の方が左右で違ってんじゃねーの」
「それもありうるか」
安物だったしね、と笑ってやると、ドケチの帝王が呆れた顔をした。あ、やだ加賀のクセに生意気。
「そこんとこはフンパツしよーぜみきちゃん。女の子のカラダにうっかり傷なんか作るもんじゃねーぞ」
「んー、反省しとく」
何しろ今回は、初めてだったので。別にケチった末に安物を買ったわけではなく、あれくらいが相場なのだろうと思っていただけなのだ。
「次は誰かに一緒に選んでもらうかなぁ……今日子オーナーだったら間違いないって気がするし」
「高くつくけどな」
何度かそういった“被害”に遭ってることを聞き知っているだけに、加賀の一言は身に染みる。深々と拝む仕草をしてやって、取り敢えず手近なカートンの上に腰を下ろした。
うう、じぐじぐと痛む。履きなれているスニーカーでさえこうなのだ、最中がどんなに辛かったか。靴を放り捨て靴下を脱ぎ、赤い擦り傷を睨み付ける。
「あー、なんか悪化してる気がする……」
「絆創膏かなんか貼っとかなかったのかよ」
「忘れてたんだよ、朝はバタバタしてるからさ……まあいいや、今からでも午後は楽になるでしょ」
「ほらよ」
気の利くことだ。軽口を叩いている間にも、加賀の手にはしっかり救急箱が掲げられている。礼を言って受け取って、使い慣れた絆創膏の紙箱を取り出した。
「で、どーしたんだよソレ」
「あー、うん。ちょっとね」
微妙に言いにくい。……加賀じゃなくて、今日子オーナーとか、あすかとかが気付いてくれてたんならまた、違ったんだけど。
……或いは、アイツ本人とか。ね。
「新条と関係ある?」
「 」
「お、正解。みきちゃんて案外正直だよな」
表情筋がさ、などと嘯く横顔を見上げた。なんてこった、さすがは加賀だ。
「……どこ情報なの」
「今日子さん情報」
相変わらずよーく見てんだよな、新条のことはな、と、どこまで本気なのか判らない調子でぼやく。溢れた苦笑を振り落すように下を向いた。
だったら今日子さんが気付いてくれたらよかったのに、と思ったけれど、そういえばうちのオーナーは今日から明後日までイタリアに飛んでいる筈だったことを思い出す。
冤罪ごめん今日子さん。
「……気が利くタイプじゃないからさぁ。アイツ」
「うん」
「そりゃ、グーデリアンとかみたいにやったら背がでかいとかそーいうんじゃないし、アタシだって別に、人よりちっちゃいってんじゃないしさ」
「うん」
「でも一応、……それなりの身長差とか。あるんだし。……せっかく、それなりの恰好、してったんだし」
「うん」
投げやりなようでそうでもない、きちんとタイミングを押さえた相槌。あー、やっぱり加賀は上手いな、こういうの。モテるわけだわ。よく分かる。
「あんなにスタスタ歩かれるとさ、……やっぱそれなりには、しんどいんだよね! 歩幅も違うし! ヒールだしさ!」
「まあ、言われねーと気付かねぇだろうな、新条じゃ」
「……うん」
分かっている。それは分かっているのだ、自分でも。でも、なんだか言い出せなかった。ほんのちょっと意地になってしまった。
だって、せっかくのフレアスカート、せっかくのピンヒール、せっかく少し巻いた髪に、珍しく乗せてみた口紅に、何も言わなくったってちゃんと、一言感想がほしかったのだ。
加賀は気付いてくれたのに。ほんの少しの傷を庇って、普段より少しだけ、本当に少しだけ動作の鈍い、今日のアタシに、ちゃんと。
「……悔しいなぁ」
「んー?」
「今日だって、コレにも気付きもしないよーなヤツなのにさぁ。それでも、浮かれてデートに行っちゃうんだよ、アタシ」
うひひ、と加賀が笑う。あー、楽しそうだなぁ。いつも猫みたいな目が普段以上に細まって、いつも以上にきらきらして。魅力的だなぁ、って、思う。
思うんだけどさ。
「…どーして、“その人”じゃなきゃダメになっちゃうんだろうね」
「恋なんて呪いみたいなもんですヨ」
「うわぁ、アンタの口から恋とか」
「若いって素晴らしいよねェ!」
調子いいコト言いながら、いつの間にか加賀が足下に屈み込んでいる。剥離紙を剥がしかけたところだった絆創膏を掬い取られて、あ、と思う間に右足をひょいと持ち上げられて。
「ちょ、加賀」
「ついでついで。サービスサービスぅ♪ってな」
「ばか、人前でやるようなコトじゃ、」
「それ却って危なく聞こえねーかぃみきちゃーん?」
ぐ、と言葉に詰まったところに、またからかうような含み笑い。
「人前だから、敢えて、な。ちょうどこっち見てる」
「え」
「少しぐらい、ヤキモチ妬かせたって罰は当たんねーだろうよ」
「ちょ、うそ、どこ、」
視線を泳がせても自分には見付けられない。どこ? 死角? 背後、それとも遠くから?
「……新条はともかく、みきちゃんのこの傷には敬意を込めて」
「は?」
敬意って。なんだそれ。探す相手も忘れて、加賀を見る。ぱちりと視線がぶつかって、猫のような目がにんまりと笑う。
「鈍感野郎に勝負を挑んだ、名誉の負傷に最敬礼」
ぺたり、と貼られた絆創膏を、男の指が恭しく撫でて。
――思わず閉じた瞳の裏で、アタシは再戦の勝利を誓った。
[2014年11月]