秋と神話


「椿くん見てるとね、いつも思い出すの」
 窓辺に腰をかけて花海は言った。
「……何を?」
「何だっけ。いたでしょ。彫刻の話。知らない?」
「彫刻?」
「椿くん、とろけそうな目してるもんね。絵描いてると」
「……都築の言うことって、判らない」
 椿は木炭を置き、溜め息をついて振り返った。窓越しの陽射しが目に痛い。
「そうかな? うん、でも、私には分かるからいいの」
 椿の放り出したクロッキー帳をめくりながら、花海はおっとりと微笑した。長い黒髪、しなやかな手、形良い唇の習作が並んでいる。顔を上げると、手を洗っている椿の背中に、独り言のようにして呟きかけた。
「恋する眼差し、だよねぇ?」
 水の音以外、応えはなかった。


 晴れた午後は気だるい。椿は机に頬杖をついて、眠りと覚醒の狭間を漂っていた。意識のごく一部だけが、必死で教授の声を追っている。
「つまり、ハムレットの孤独から読み取れるのは強烈なエゴイズムだとここでは言っているわけです」
 ……エゴイズム?
「愛なんて、要するにエゴイズムなのよ」
 無意識の問いに、夜空のように滑らかな声が応える。
「何が何でもその人を自分だけのものにしたいと思う。純粋で、だからこそとても残酷な我儘」
 月明かりに濡れた長い黒髪が揺れる。冷えたように青い艶の重みは、椿の知っているどんな人間にも似ていなかった。雪花石膏のような手が月光を掴み、彼女は手の中を見詰めて微笑んだ。
「ほら。どうしても掴めないものも、ある。こんな風にね」
 そうだね。月の光も、そして貴女も、そうだ。
「それでも、手に入れたいと思ってしまうのはどうしてかしら」
「……そうだったの?」
「え? なあに?」
 穏やかな瞳が椿を見る。
「何が何でも手に入れたいって、願ったことが、あったの?」
 肯定でも否定でもなく、ああ、と溜め息のように彼女は応じる。そして黙って優しく笑う。


「椿くん?」
 扉の開く音に振り返ると、花海が立っていた。肩に重そうな鞄をぶら下げて、すっかり帰り支度をしている。
「まだ描くの?」
「もう少しね。何とか仕上がりそうだから。都築は?」
「忘れ物取りに来たの。時計、外してたのにおいてっちゃって」
 言いながら、机のわきの腕時計をつまみあげる。傾いた陽射しが、短い髪を柔らかな栗色に染めた。彼女の目の色だ、とぼんやり思う。
「椿くんも、暗くならない内に帰ったほうがいいよ。秋はすぐ夜が来ちゃうんだから。ね?」
「ああ。そうする」
 余計なお世話だ、などと言わないところが椿の良さだ。花海は微笑んで時計を巻きつけ、ぱちんと音をさせたところでふと振り向いた。
「そうだ、椿くん。思い出したよ」
「え? 何を?」
「この前、話したでしょ。彫刻の話」
「この前、って、夏休み前に言ってたやつ? 僕を見てると思い出すって」
「そんなに前だったかな。うん、それ。あのね、自分の作った彫刻に恋しちゃった彫刻家がね、神さまに願って本物の人間にしてもらうの。で、最後は奥さんにするの」
「……なんか、幸せなような不幸せなような話だね」
「でしょ? だからね、思い出すの」
「僕を?」
「そう。時々ね、本当に幸せそうな顔してるから」
 花海は一瞬微笑を消して、言った。
「すごく、すごく、怖くなる。大丈夫かなって。もしかして、ひょっとしたら、って」
 流れた雲に、陽射しがとろりと薄れた。花海の茶色い目が、泣いているみたいに揺らいだ。
 ……椿は黙って突っ立っていた。


 淡い橙だった空が、紺色に変わっていく。椿はなくなりつつある光でカンバスを眺めた。
 夢の中と同じ、彼女が微笑んでいる。滑らかに冷えた白い肌。控えめに輝く黒曜石の瞳。
 唇を三日月のようにかたどる微笑。椿は絵をじっと見詰めたまま絵筆を置いた。

 漸く、逢えた。

 夢でしか逢えなかった彼女が、今、ここにいる。探しても探しても、彼女に似た人などいはしなかった。この世界の、どこにも。
 だから椿は絵を描いたのだ。太陽が月に焦がれるように、逢いたくて、会いたくて、あいたくて――。

 彼女は、今、ここにいる。動く筈もない。声ひとつたてない。
 それでも彼女は、ここにいる。椿に手を差し伸べて、月の光のように笑って。

「ねえ」
 椿は呟いた。
「貴女に、僕は見えてるの?」
 答えはない。一日の名残の光も、消えた。彼女の微笑みを照らすのは、月のない夜空に貼りついた星々だけだ。
「変だね。こんなに、近くにいるのに」
 乾ききらないカンバスに、そっと指を触れる。
「なんだか、すごく、遠い。夢の中より、もっと」
 椿は目を閉じた。感じるのは、降り注ぐ夜の息吹だけ。
「……願って、叶うものなら」
 僕も。

 神さま、もしも、叶うものなら。

「貴女の、近くに――」
 掠れた声は、静寂に溶けて、消えた。


「椿くん? いないの?」
 花海は美術室の扉を開けて呟いた。
「変だな。どこ行っちゃったんだろ」
 開きっぱなしの窓に向かって部屋を横切り、ふと立ち止まる。描きかけだった椿のカンバスに、完成を示すサインが入れられていた。花海は絵に向き直り、描かれたものを見て小さく笑った。
「椿くんてば。いくら好きでも、自分まで一緒に描くなんて……」
 彼女を抱き締める椿の似姿が、ちょっと笑ったようだった。

[09年7月]