リは林檎のリ


 下がらない。控えめな電子音を発した体温計を抜き取って、加賀は小さく眉を顰めた。
 38℃を超える状態が、もう8時間近く続いている。そろそろ解熱剤を与えた方がよくはないだろうか。今日子が置いて行った薬箱の中身を思い出しながら頭を掻き回すと、苦しげに掠れた声が意識を引き戻した。
「何度?」
「38度7分」
「……下がんねー」
「だな」
 額に貼り付けられた冷却シートに触れると、随分ぬるくなっているのが判る。替えのシートを取り出しながら、加賀は横目で息子の様子を眺めた。
 目は開いているが、どうにも光が無い。当然だ、幼い子どもならともかく、14歳という年齢の叶二郎では、これほどの熱が出れば辛いだろう。
「あー学校行きてぇわ……月曜日までに治っかなぁ、」
「……おまえそんな学校好きだったっけ?」
 汗で湿ったシートはあっけなく剥がれた。形好い額をタオルで拭って、新しい冷却シートを貼り付ける。ぼんやりしていた目が微かに細まって、少しだけ息が穏やかになった。 しんどそうにけれど嬉しげに、にへらと叶二郎が笑う。
「体育してーんだ体育。水曜に球技大会だから、」
「へー。何に出んの」
「サッカーと、ドッヂと、バスケ」
「でしゃばりすぎだろ」
「しょーがねーじゃん、オレってば頼りにされちゃってるからさー!」
 そこで声を立てて笑おうとしたようだったが、それには喉の荒れが酷すぎた。かさついた咳を溢れさせて、アタマいてぇ、響く、と呻き声を出す。
「治す気あんならおとなしく寝てろ。ほれ、水」
「……わりぃな、とーちゃん」
「別に悪かねーよ」
 のそのそと身を起こした背中を支えてやった。手のひらが熱い。次に目を覚ました時には、着替えさせてやった方がいいだろうか。考え込んで眉を寄せる。
「解熱剤、飲んどくか」
「あー、そうする……」
「なんか喰ってからの方がいいんだよな」
「食欲なんかねぇよ、」
「いいから、待ってろ」
 かさかさした声でぼやく叶二郎を残して、加賀はキッチンへ滑り込んだ。溜め息を吐く。慣れないことは、疲れるものだ。 いつも今日子にまかせっきりにしていたから、どうにも勝手が判らない。
「さて、どうすっかな」
 視線を彷徨わせて、病人への対応を考える。
 二年に一度程度の割合で、叶二郎は熱を出す。季節の変わり目や大きな行事の後、ちょっとした風邪や、精神的な疲れ。 日頃は元気すぎるほど元気だと言われる腕白小僧は、些細な原因で寝込んでしまうのだ。――かつての加賀と同じように。
「……やっぱ、コレかねぇ」
 シンクの脇にひっそりと置かれていた林檎をひとつ手に取って、手回しの良さに苦笑する。今日子が予め準備しておいたのに違いない。 そう、熱を出したと言えば林檎なのだ。加賀の周りでは、昔っから、ずっと。
 おとうさんとおんなじねぇ。
 呆れたように、そのくせどことなく嬉しそうに、くすくす笑う声が耳を擽る。遠い遠い記憶、もう30年も昔にいなくなってしまった、加賀自身の母親の声。
 扁桃腺が腫れやすいから、すぐ熱を出すのよね。おとうさんに似ちゃったのねぇ。
 ……加賀が幼い頃には割と、父親との仲は良かった。可愛がられていたと思う。 医者と経営者を兼ねる父親は四六時中忙しそうにしていたが、それでも偶の休みには外に遊びに連れていってくれた。
 けれど、楽しみにしていたお休みが、加賀自身の発熱で潰れることはしばしばで、そしてそれよりやや少ないくらいの頻度で、父親の方が寝込むことも多かった。
 また今度な、と言われてがっかりしながら、でも、おとうさんと「おんなじ」だ、なんて、こっそり嬉しがっていたのは内緒の話。 母親が用意してくれる粗くすりおろした林檎を、父親のところに運ぶのも、逆に父親が運んできてくれるのも、そうだ、とても嬉しかった。むず痒いような遠い記憶だ。
 ――加賀が今の叶二郎と同じ歳になった頃には既に、父親との亀裂は決定的なモノになっていたし、家を飛び出してからはもう、一生関わらないだろうと思ってもいた。
 なのに、こんな形で。断ち切れない繋がりを思い知らされるなんて、因果な話ではないか。
「……まぁ、しょーがねーか」
 果物ナイフを突き立てれば、甘い香気が立ちのぼる。どうだっていいのだ、過去の確執なんてもんは。もう。
 斬れない筈のものを断ち切ろうとするように、加賀は喰い込ませた刃に勢いよく体重をかけた。


[2013年10月]