紛い物の世界(―― Life in Plastic.)
・・・ And the world is not real.
「目を覚ましたら世界が変わっていた」
――というのは多分に、不正確な描写。
世界はちっとも変わっていない。変わったのは自分の方だ。
「……で、視神経の再生自体は現在では不可能。代替手段として、侵襲型の――」
「痛むのね。可哀想に」
「情報開示の請求は認められていない」
「機能訓練は15段階、300日間に分けた計画に基づいて行われます。第1段階を明日13:00から……」
「何が見えるか言ってみたまえ」
「……からのデータを分析した結果、電位変化に2.33%の確率で異常が――」
「信じているの? こんな身体で、本当にまた走れるだなんて」
「――という可能性は否定できない。いいね?」
「ほら、おくすりよ。のんで」
「……に、僅かな摩耗が確認されました。42時間経過時点を以て挿入具の交換を――」
変わったのは自分の方だ。
何度説明されても理屈の解らない機械で何割かを補われた不完全な体。欠けてしまった一本の腕とひとつの眼球と、何本か何十本か何百本かの神経。
補うことは出来ても取り戻すことは出来ない。
二度と、元には戻らない。
「今触れているのがどの指かわかりますか」
「――を試してみないか。痛みが幾らかは軽減されるはずだ」
「画面にあるものを左から順に読み上げてください」
「やっぱり、右目に比べるとどうしても不完全で……」
「第7段階に入ります。明日からは、研究棟Bの8階へ来てもらいます」
「だが、予想された値を0.7も割り込んでいるんだぞ!」
「……の接続部分の不具合だと予想されますが、しかし――」
「かわいそうだわ。こんな検査ばっかり」
「――と、報告書では断定していますが、実際の観測では……」
「だって、所詮はツクリモノでしょう?」
◆
……遠いざわめきの中に、低い笑い声が混じったのに気付いて目を開けた。間近で、宝玉のような碧が微笑んでいる。淡い金色の睫毛に縁取られた瞳。
「お目覚め?」
「……クレア」
「珍しいわね、あなたがこんなところで居眠りだなんて」
ざわめきの正体はホールから吐き出されている人々の群れだったらしい。
ロビーの脇に置かれたテーブルの列には、自分以外にもちらほら、運営ミーティングの終わりを待っていたらしい人影があった。
ホールから出る人間と入る人間が入り混じる。片手に資料の束を持った各チームのスタッフたちが、ばらばらと目の前を通って行く。
「ドライバーズミーティングは15分後よ。もう少し眠っておく?」
「いや、」
眠るつもりなんかなかったんだがな。呟いた声は少し、言い訳がましく聞こえた。
「――寝不足なの?」
「心配するな」
微かに寄せられた眉に、苦笑で答える。
「調整にちょっとかかりすぎたんでね。ペースが狂ってしまっているだけで、睡眠不足だという訳じゃない」
「『調整』……」
呟き直して、それからクレアは得心したように頷いた。声が、辺りを憚るように低くなる。
「接合部の話ね。ユディスが言ってたわ。――それにしても、スパンが短すぎるようだけれど」
「そうか?」
「とぼけても駄目よ、エデリー。前回の『調整』があったのは3戦前でしょう。以前なら、半年に一度で充分だったわ」
「敵わんな、お前さんには」
竦めた肩が、微かに痛んだ。痛みと言うよりは違和感。『調整』し直したばかりの接合部は、生身の肩の筋肉と、ほんの僅かに喰い違っている。
その左肩に手を置いて、クレアは静かに呟いた。
「痩せたのね。……また少し」
「そういう年齢だよ。認めたくないがね」
笑いを含ませた筈の台詞の響きは苦かった。ほんの少しだけ、けれど明らかに。クレアがはらりと目を伏せる。
「メディカルチェックの結果を、分析させてもらったわ」
「そうか」
激務続きだろうに、よくそんな暇を作れるものだ。所属チームの「頭脳」たる女性に、改めて舌を巻かざるを得ない。
「つらいでしょうね。いくらあなたでも」
答えは、小さく笑うだけに留めた。
「どうして、そんなにまでして走ろうとするの?」
真っ直ぐ上げられた薄青の目に、こちらを責める色はない。純粋な興味、或いは好奇心、そしてほんの少しの呆れだ。
「そういう性質なんだ、としか答えられんな」
「修さんでさえ、辞めざるを得なかったのよ。あなたより、ほんの少しだけれど若い彼でさえ」
菅生修のずたずたになった視神経は、当時最新の医療技術を以て再生された。
一方の自分の事故は、彼に遡ること数年前。破断の状態は数倍から数十倍酷く、再生処置は諦めざるを得なかった。
代わりに得たものは、何度説明されても理屈の解らない機械で何割かを補われた不完全な体。
「これ以上続けても、つらいだけではないの?」
手術自体もリハビリも、その後のアップデートも調整も、いちいち気が遠くなるような苦痛を伴った。
今まで通りの実力を保つ為に、今までの3倍以上の負荷をかけたトレーニングをしなくてはならなかった。
直接的にではなくても、クレアはそれを知っている。――だからこそ、ここまで率直に、残酷なことが言えるのだ。
それでも。クレアには決して、解らないだろう。
いや、自分以外のきっと、誰にも。
「……辛いくらいでなくちゃ、実感できんのさ」
「何を?」
笑って、片手で右目を覆う。視界が半分になる。人工眼球越しの、素晴らしく鮮明な映像。
「研究熱心な先生達のおかげで、こうやっても俺には世界が見えるがね、」
「………」
物言いたげな瞳をして、それでも口を閉じたまま、クレアはじっとこちらを見ている。
「しかしそれは所詮、つくりものの目玉とつくりものの神経で見てる、ツクリモノの世界に過ぎん」
「…………」
クレアは首を振った。毅然と。唇は噤んだままだ。
「俺が見ているこの世界は、いつだって半分ニセモノなのさ。だから、普通以上の刺激でなければ感じられん」
「――エデリー」
偽物の視界の中で、偽者のクレアがまた、首を振った。いつも嫋やかな眼差しが、灼け付きそうなほど凛としている。
「嘘ね。そんな破滅的な理由で走るには、エデリー・ブーツホルツは健全過ぎるわ」
「褒め言葉のつもりなのか?」
「いいえ。事実を述べているだけ」
思わず笑ってしまった。クレアらしい、実に冷静で確信に満ちた物言い。
それでも。彼女には決して、解らないだろう。
不完全な世界を抱え続ける自分以外のきっと、誰にも。
右目を覆っていた手を外した。左目の視界と右目の視界が重なる。僅かに肩が、痛む。
こんな思いをしてまで、走り続けることが正しいのか、否か。揺れ動き続ける半信半疑の境目。
半分だけホンモノで、半分だけニセモノ。それがつまり、自分の生きていく世界なのだ。――唯一の、たったひとつの居場所なのだ。
「あ、ブーツホルツさん! ホール、もう空いてますか? 早めに座っちゃいましょうよ!」
その視界に遠くから、手を振って駆けて来るチームメイトの姿が映る。振り返ったクレアが、ハヤトくん、と呟いて、それで会話はおしまいになった。
「私もそろそろホームに戻るわ。――じゃあ、気を付けてね」
ふわりと笑って立ち去った後ろ姿を見送って、ハヤトが不思議そうな顔をする。
「……ミーティングなのに、何に気を付けろっていうんでしょうね、クレアさん」
「さあな」
立ち上がりながら軽く竦めて見せた肩の、左側に感じる微かな違和感。そう、所詮は、つくりものの。
それでも。この体で、走り続けられる限りは――
これだけは本当だと信じられる自分の居場所に、ずっと、しぶとく在り続けてやる。
ツクリモノの世界だとしても、きっと。
・・・ The world is not enough, but it is beautiful.
[2011年10月]