朱に交わりて赤


「あぁ、やっと寝た……」
 ぐったりとハヤトが呟いた。炬燵の横に敷いた小さな布団の上では、子どもたちがすやすやと寝息を立てている。
「おつかれ。なかなか寝なかったな」
 小さく笑い声を混ぜて労ったのは、炬燵に両手両足を突っ込んでいる新条だ。
 今夜は寒い。音量を絞った点けっ放しのテレビでも、年明けまでこの寒さは続くだろう、と言っている。
「いつもなんですよ。今日は昼間よく遊んでたから、ちょっと期待したのになぁ」
「少し興奮しすぎたのかもな。慣れない場所だし」
「みずきちゃんが落ち着いてるのは、自分のうちだからなんですかね」
「まあ、普段からよく寝る方だとは思うけど」
「新条さんに似たんじゃないですか? 呑気なところ」
「おまえに言われたくないぞ。どっちかっていうとおれは、自分は繊細な方だと思ってるんだから」
 わざとらしく唇を尖らせた新条を振り返って、ハヤトは、あはは、と笑う。もちろん、寝ている子どもたちを起こさないように声を潜めて。
「しかし、ほんっと元気だな、ヒロトくん。やっぱり男の子は違うんだな」
「元気すぎますよね。あすかはよく一日中相手してるよなぁ……」
「だから、偶には出掛けたくなるんだろ?」
「ま、そうですけど」
 幼い息子の寝顔を見つめ、苦笑とも微笑ともつかない表情でハヤトは続ける。
「それにしたって、ランチでよかったんじゃないかと思うんだけどなぁ。 みきさんとなら、お酒の力を借りなきゃ話せないって仲でもないんだし」
「あれ? 聞いてないか?」
「? 何をです?」
「今日子さんも来るんだって」
「え! そうなんですか!」
「ああ。だから、遅い時間のスタートになっちゃうのは仕方ないんじゃないかな」
「なるほど、それなら分かります。……だったらなおさら、加賀さんもここに来られればよかったんですけどね」
「加賀はまだアメリカなんだろ?」
「ええ。新しいエンジンとの相性を見てからじゃないと帰れない、ってぼやいてました」
「スタッフも加賀も、クリスマス休暇返上って訳か……気の毒に。年明けに回せなかったのかな」
「あは、それは無理ですよ。だってほら、年明けには」
「年明けには?」
「……あ。聞いてません?」
「何かあるのか?」
「あるんですよ」
 くすくす笑うハヤトは、心底面白そうだ。
「加賀さんてばとうとう、今日子さんちに『ご挨拶』に行かなきゃいけないんですって」
 新条も苦笑混じりに破顔する。
「あー、それはそれは……だな。そうか、とうとう加賀も、そこんとこはっきりさせなきゃいけなくなったのか」
「ちょっと怖そうですよね、今日子さんのお父さん。加賀さんがどんな顔するのか、見てみたいくらい」
「まあ、完全な初対面じゃないだけいいんじゃないか?」
 今日子の父――葵走一郎は、葵自動車工業株式会社の元社長である。 AOI-ZIPフォーミュラのドライバーだった加賀とは当然、互いに見知った間柄だ。
 本来加賀はお偉方相手にも物怖じしない男だが、 それでも「娘さんとお付き合いさせて頂いてます」という立場では流石に呑気でもいられないらしい。
「でもたぶん、かなり緊張してますよ。一生懸命平気なフリしてましたけど」
「そうか?」
「あれこれ訊かれましたもん。僕の場合、菅生のおじさんとは小さい頃から親しくしてるんですから、 全然参考にならないですよって言ってるのに」
「それは確かに。……しかし、あの加賀が、なぁ」
 苦笑まじりのまま、感慨深げに呟く新条。 うんうん、と頷いたハヤトが炬燵に潜り込もうとしたとき、背後で「くちゅん!」と可愛らしいくしゃみの音がした。
「うわ、鼻水……っ」
「ハヤト、ほら」
 わたわたするハヤトに新条がティッシュの箱を投げ渡す。
「あ、ありがとうございます、」
 手早く洟をかんでやって、ほう、と安堵の溜め息を吐く。
「よかった、みずきちゃんが起きちゃわないで」
「いいさ、起きたらまた寝かせば。大した手間でもないだろ」
「うわ、余裕のセリフ。すっかりお父さんですね、新条さん」
「まあ、ハヤトより幾らかキャリアが長いからな」
 呑気な寝息を立てている愛娘に視線を投げて、新条は照れたように微笑む。
「なんか未だに信じられませんね、僕らがこうやって、子どもらの相手をしてるなんて」
「ほんと、そうだな。ハヤトなんか、おれよりずっと子どもだと思ってたのに」
「あ、やだな新条さん、そんなこと思ってたんですか?」
「そりゃ……14歳だったんだぞ、おまえ。あんな子どもに負けてたまるか、って、そりゃあ思ったさ」
「新条さんだってその頃は17歳でしょ? 充分子どもですよ」
「まあな。今から見れば勿論、子どもだよな。頭の中身も、精神的にも」
 プライドとプレッシャーを背負って押し潰されそうだった日々。目の前の壁にぶつかっては擦り傷だらけになっていたあの頃。
 お互いの青臭い振舞いを思い出して二人は、どちらからともなくくすくす笑い合う。
「そういえば、新条さんっていつから僕のこと『ハヤト』って呼ぶようになったんですかね」
「……ほんとだ。いつの間にか『風見』じゃなくなってるな」
 首を傾げて暫く、考える。
「……周りが皆、『ハヤト』って呼ぶからなぁ。みきも加賀も、あすかちゃんも」
「影響されちゃうんですよね、自然に。そういや僕も、うっかり今日子さんのこと『オーナー』って呼んじゃったことがありますよ」
「みきもおれもそう呼んでたもんな」
「今は『今日子さん』ですけどね。そういえば今日子さんも、あすかのこと『あすかちゃん』って言うようになりましたし」
「加賀がそう呼ぶから……なのかな?」
「みきさんのことは相変わらず『みきさん』みたいですけどね。これは職場が一緒だからってのもあるんでしょうけど」
「面白いな、こうやって考えてみると」
「ホント、面白いです。それに、なんていうか……」
 ちょっと言いよどんで、それからハヤトは笑った。
「うん、なんていうか。感慨深い、ですよね」
「感慨?」
「ええ。なんだか、しみじみ思っちゃうんですよ。人は、ひとりで生きてるんじゃないんだな、って」
「うわー優等生的発言」
「って、新条さんがソレ言いますか……」
「おまえはもっと不遜になれよ。多少嫌われないと、チャンプらしくないぞ」
「いつから皮肉屋キャラに鞍替えしたんです?」
「さあ? それもきっと誰かの影響なんだろ」
「誰ですかね。ま、素直を絵に描いたような僕ではないとしてー」
「おまえな……」
「冗談です」
「実際、素直が売りだった筈なのに、いつの間にかすっかり生意気になったよな。それこそ誰の影響なんだか」
「分かりませんねー、心当たりが多すぎて!」
 よく言う、と苦笑して、新条は目を細める。
「でも、ハヤトの言ってることはおれにも、わかるよ。――人って、変わっていくもんなんだな」
「『朱に交われば赤くなる』ってやつですかね」
「そうだろうな。もう手の施しようがないほど真っ赤だ、みんな」
 くるりと瞳を廻らせた新条に、でも、と呟いたハヤトは笑いかける。
「でも僕、嫌いじゃないですよ。今の自分も、新条さんも」
「……うん。おれも」
「じゃ、いいじゃないですか」
「だな」
「ですよ」
 あとは、低く流れるテレビの陽気な音声のみ。
 みきたちの賑やかな声を待ちながら、男ふたりはのんびりと、留守番の夜を楽しんでいる。


[2010年12月]