薔薇よりも
薔薇の香りの只中で、ふいに呼び止められた。
「これはこれは、珍しいところでお会いしますね」
高慢と優美の絶妙なバランス。聞き覚えのある声と口調に、今日子は振り向いた。
「まあ……」
「お久しぶりです、フラウ・キョーコ。……いや、あなたの場合、やはり女王陛下とお呼びした方がいいのかな」
「よしてちょうだい」
苦笑して、右手を差し出す。優雅な仕草でその手に口付けて、若きランドル家当主は微笑んだ。
「開幕から4戦連続表彰台。今期のアオイは手強そうですね」
「今期も、と言ってもらえると嬉しいわ」
「はは、相変わらずだ。で、勝利に貪欲なその女王様が、こんなところに何の用です?」
「こっちの台詞よ。貴方のところは、花卉市場にまで手を広げたの?」
「もともと、薔薇は僕の趣味でしてね。
個人的に改良させていた品種の中に、これは市場価値があるだろうと思われるものがいくつか出て来たので、
真剣に参入を考えているんです」
そう言えば、薔薇はこの美貌の青年のトレードマークだった。
30歳を目前にした今でさえ、彼の存在感は周りを取り囲む無数の品種のどれにも劣らない。
「真っ青な薔薇でも咲かせたのかしら?」
「いや、咲いたのは紫の薔薇ですよ。ああ、ちょうどあなたの後ろにある、それです」
「ああ……」
振り向いて、目を細めた。中心部に向けて濃くなる色合いが印象的な、微かに青みがかった紫色の薔薇だ。
可憐さや華やかさではなく、滲み出るような品格のある古風な紫。
何につけても派手好みのこの男の庭から、こんなに高雅な色合いの薔薇が生まれたというのが、何とはなしにおかしい。
「いい色だわ。香りも控えめで、上品な感じね。名前は、なんと?」
「『むらさきのゆかり』」
流暢な日本語で言われて、目を瞬く。
「……日本語なの?」
「改良を手がけてくれたのが日本人の女性でしてね。彼女からもらった名前なんですよ。
縁が繋がる、といった意味なのでしょう? 美しい言葉だ」
「ええ……そうね、」
意外の感から逃れられずに目をぱちぱちさせている今日子に、ランドルは面白がっているような笑みを向けた。
「そう、せっかくのご縁だ。宜しければ僕と一緒にお茶など、いかがです?」
「それにしても、」
勿論、供された紅茶はローズティーだった。薔薇の香りがする湯気を吸い込んで、今日子は溜め息のように言った。
「考えてみれば不思議な光景ね。もう、貴方に会うことなんてそうそうないと思っていたのに」
「まったくです」
鮮やかな緑色の目を細めて、笑う。
「貴方が引退して以来だから……5年ぶり? に、なるのかしら」
「そうですね」
傲岸不遜、という言葉がぴったりの少年だった。憎らしいのは、その生意気な態度に、相応の実力が備わっていること。
『帝王』風見ハヤトが同じ世代でさえなかったら、『皇帝』と呼ばれていたのは彼だったろう。
その生意気さが、実力に裏打ちされた威厳に変わり始めたかと思われた頃、
『無冠の天才』カール・リヒター・フォン・ランドルは唐突に引退を宣言した。
CF界は大騒ぎになった。
が、勿論、それだけで終わらせるような彼ではない。
悲願の総合優勝を、引退を宣言したその年に達成してみせたのだ。
勝ったから引退するのではない。勝てないから引退するのでもない。誇り高く負けず嫌いの彼らしい、実に鮮やかな幕切れだった。
「まったく、不思議なものだ。普段はほとんど意識していないのに、あなたを見かけたら、急にあの頃が懐かしくなった」
「サーキットに戻りたいでしょう」
「夢に見ることがありますよ。ごくたまにね」
屈託なく笑う。執着しているのでも、後悔しているのでもないという顔。ただ懐かしいだけだ。
「もっとも、走らないとはいってもCFに関わり続けてはいるんですから、
そういう意味では僕は一生ものの縁を拾ったのだと言えるのかも知れないな」
直接の運営指揮は執っていないものの、ユニオンセイバーは依然としてランドルのチームであり続けている。
「忙しく世界中を飛び回る今のスケジュールも、あの頃と同じと言えば同じですからね」
目を細めるようにして、ランドルは微笑む。
「あなたも、相変わらずお忙しそうだ」
「大したことないわ。今日の品評会は、半分趣味のようなものだし」
「でも、半分は仕事でしょう」
「……そうね」
「あなたを広告塔に出来るアオイという企業は幸せだ。これだけの花の中にいて、あなたほど目を惹く女性は他にいませんよ」
「いつからそんなにお世辞が巧くなったの?」
「なに、経営者の嗜みです」
澄ました顔で嘯くので、結局今日子は吹き出した。
「いいわ、ランドル家のお坊ちゃまも成長したのね、と言っておくわ」
「お褒めに与ったと思っておきますよ。……おや、もうお帰りですか?」
「ええ、このあと会食があるの。お茶をありがとう、ランドル」
立ち上がった今日子を見上げて、ランドルは瞬いた。かつては少女のようだった端整な眼差し。長い睫毛だけが相変わらずだ。
「では手土産に、こちらの花束をお持ち頂こうかな」
その長い睫毛を震わせて笑うと、部下らしい男から薔薇の花束を受け取る。豊かで上品な紫。――『むらさきのゆかり』だった。
「これ……」
戸惑う。発表されたばかりの新作だ。希少価値も、花そのものの価値も高いだろうに。
「そう、さきほどお目にかけた、自信作です。ご迷惑でなければ持っていってください」
「……いいのかしら?」
「もちろんですよ。それにあなたには、その色が似合う」
「え?」
瞬きする。視線の先で、ランドルが微笑む。
「サーキットにいるときのあなたは、いつもその色を着ていたでしょう。AOI-ZIPの、薄紫のジャケット」
「そんな昔のこと、」
「いいチームでしたね、アオイは。
……ハヤトがいることはもちろん、加賀や新条や、グーデリアンやブーツホルツや、
そしてあなたがサーキットにいたからこそ、あの頃は面白かった。
今になって、そんな風に思ったりもするんですよ」
「ランドル……」
「おっと、昔を懐かしむのは年寄りのすることでしたね。僕の歳でこんなことじゃいけない」
大袈裟に肩を竦める仕草に、吹き出す。全く、成長したものだ! こんなユーモアまで発揮出来るようになるなんて!
「それに、花をもらって嫌がる女性はいないというのが僕の持論でしてね。どうです?」
「……確かに、悪い気分じゃないわね」
微笑む。もともと花が好きな今日子だ、正直に言えば、嬉しい。
「あなたの夫を悪く言って申し訳ありませんが、あいつじゃ、花を贈るような真似はしてくれないでしょう」
悪戯っぽい眼差しに破顔する。
「そうね、記憶にある限り一度もないわ。でも」
「でも?」
「薔薇よりももっと素敵なものを、くれたから」
「それは?」
「共に過ごす日々を」
これはこれは、と、面白そうにランドルは笑う。
「あなたは、世間のイメージよりも遥かに、ロマンチストなんですね」
「あら、ロマンチストでなかったら、花を愛でることなんか出来ませんわ」
それで、と、今度は今日子がからかうような眼差しになった。
「貴方の可愛い婚約者は、どうなの?」
「僕の逞しいフィアンセは、薔薇なんかよりパーツの改良をしてくれと言ってますよ」
「彼女らしいわ、」
「まったくです」
肩を竦める仕草が微笑ましい。
「ま、僕は市場開拓に励んで、せいぜい彼女に資金を提供してやりますが。
あなたは、……今期もまた、戦うんでしょう?」
「ええ」
「いい勝負を、期待していますよ」
差し出された右手を握り返しながら、今日子は微笑んだ。
所属する場所が変わっても、存在する場所が遠くても、消えてしまう訳ではないゆかり。
薔薇の花束に目を丸くするであろう夫に、『むらさきのゆかり』という言葉を教えてやろうと、思った。
[2010年7月]