チョコレートにハーブティー


 車に乗り込んだら深く俯いたルリがいて、ちょっと意外でびっくりした。雨さえ降らなければたいていいつも、鏡の運転する車でじゃなくって、アルマさんと一緒に帰ってくるのに。
 しかも今日なんてバレンタインデーなんだから、ぜったい、アルマさんとデートしてから帰ってくるんだろうって思ってたのに、なのに一体、どうしちゃったんだろう。
 雰囲気が暗い。わたしが乗り込んでもおかえりの一言もないし、顔を上げないし視線を動かそうともしない。 ミラー越しに目が合った鏡に視線だけで訊ねてみたけど、返ってきたのは小さく首を振る仕草だけだった。
 とりあえず、家までやるように指示する。感情を押し込めがちなルリの癖は、今になってもあの頃のままだ。 簡単には話してくれないだろうし、鏡のいるところじゃたぶん、なおさら。さっさと帰って、お茶とお菓子でも用意して、ゆっくり聴いてあげた方がいい。
 内心で計画を整えると、わたしはルリの隣で目を閉じた。

「……アルマさんが、」
 ようやくルリが口を開いたのは、二杯目のティーポットが空になる頃。わたしが淹れた、鏡が淹れるほどには美味しくないはずのハーブティーを、無口なルリはよく飲んだ。 ローズマリーの清々しい香り。少しは、気持ちをほぐしてあげられただろうか。うん、と頷きながら、次の言葉を待つ。
「チョコレートを、もらってるのを見たの。クラスの女の子たちから」
「それで?」
 口調が尖らないように、気を付けて。そっと促すと、翡翠色をしたルリの目がふっと沈んだ。
「一緒に、帰ろうって言ってくれてたの、だから待ってたのに、」
「うん」
「アルマさん、すごく嬉しそうだった。すごく。ちょっと照れたような顔して、みんなで笑ってて、」
「……うん」
「私、……それを見ていたら、苦しくなって、アルマさんの顔、ちゃんと見られないような気がしてきて、それで、」
「それで、待つのやめて帰ってきちゃったの?」
「………」
 こくりと頷くルリの目は、相変わらず重苦しく沈んでいる。長い睫毛。わたしと違って、涙をいっぱいに溜めておくのがすごく似合ってしまう、翡翠色の瞳。
 ダメな子だなぁ、って思う。何を今さら。こんな特別な日に、わざわざ「一緒に帰ろう」って言ってきてくれるような相手が、他の女の子たちによろめいたりするはずがないのに。
 それでも、不安になってしまうものなんだろう。恋をするということ。想い想われるということ。わたしにはまだ、本当はよく、わからない。
「じゃあアルマさん、まだルリのこと待ってるかも知れないわね」
 ぴくりと肩が動く。気付かないふりをして続ける。
「期待してたんじゃないかなー、アルマさんも。甘いものけっこう好きだって言ってたもんね。ルリからどんなチョコがもらえるか、ぜーったい楽しみにしてたと思うけどな」
「…………」
「ま、でも、もうこんなに暗くなっちゃったし。さすがに帰っちゃったかなー?」
 わざと無神経な口調で言ってやりながら、ちらりとルリを見る。きゅっと噛まれた唇が震えている。
 ……ルリはこういうとき、泣き出したりわめき出したりはしない。俯いて黙りこくってやりすごしてしまう。昔からそうだ。そういう子だと思ってた。 別に構わないと思ってた。でも。
「――ルリより、アルマさんが可哀想よ。こんなつまんないバレンタイン」
「だって、」
「誰かからチョコもらって嬉しいのと、ルリからチョコもらって嬉しいのとは、ぜんぜん別の話でしょ?」
「…………」
「ルリだって、ちゃんと渡したいくせに」
 わかってる。そんなに器用じゃないルリが、色んな人に教わりながら一生懸命に用意してたのを知ってる。黙ったままじっと見つめていたら、ようやくルリが頷いた。
「じゃあ、謝らなきゃ。……今から行って、渡せばいいわ」
「えっ、」
「わたしがついてってあげる。ジュニアと一緒じゃ、やりづらいでしょ?」
 ルリも、アルマさんもね。ウインクしてみせると、ルリが笑おうとしたのが分かった。翡翠色の瞳はまだ潤んでいて、うまく笑えてはいなかったけれど。
「今からなら、夕飯までに戻ってこられるんじゃないかな。ユミコに頼んで、目立たないように1台出してもらって……」
 インターフォンを取ろうと立ち上がりかけた途端、涼やかなベルの音が響いた。遠く外玄関の門柱に取り付けられた呼び鈴を誰かが押した音。
 平日の夕方、何の約束も無しに?
「今ごろ、誰……」
「ルリおじょうさまっ!」
 呟いた声をかき消すようにドアが開く。メイド隊の一人、ミホが目をきらきらさせて立っていた。
「どうかしたの、」
「アルマさまが!」
「えっ」
 思わず顔を見合わせた。ミホのこの雰囲気からすると、悪い話ではないようで、ということは、つまり――
「アルマさまが、お見えです! おじょうさまにお会いしたいって!」
「そ、そんな、」
「すぐお通しして。ここでいいわ、ちょうどお茶もお菓子もあるし。ジュニアに取り次ぐのも後で構わないから」
 頬を赤くしておろおろしているルリに代わって、脇からミホに指示を出す。 かしこまりました、と一礼した後、アルマさま、すっごく照れくさそうな顔でお待ちですよ!と付け加え、満面の笑みを浮かべたままでミホは去った。
 残されたのは動揺しているルリと、わくわくしているわたし。棚からカップをもう一つ出し、茶葉を取り換えて新しくお湯を注ぐ。
「ねえルリ、アルマさんも、ローズマリーティーでも大丈夫?」
「えっ、……あ、そうね、好きだと思うわ、」
「よかった。ルリのも、もう一杯注いどくわね」
「ありがとう、アオイ」
 半分以上うわのそらでも、ちゃんとお礼を言い、ちゃんと頷く。こういうところも、変わっていない。 懐かしくくすぐったく思いながら、自分のティーカップにも新しいお茶を注ごうとして、ふと手を止めた。
「そうだわ、」
「?」
 ルリの顔を見る。不思議そうにルリが瞬く。
「わたしがいたら、お邪魔かしらね?」
「なっ!」
 一瞬で耳まで赤くなる。かわいい。くすくす笑いを収められないまま、わたしは止めていた動きを再開させた。
「ルリがイヤじゃないなら、ここにいるわ。……アルマさんがどういうかは、わかんないけど」
「邪魔だなんて、言わないわ」
 絶対。小さく、けれど確信に満ちた声で付け加える。そうだろうと思う。そういう人だ、あの人は。そしてあの人が選んだ、わたしの妹も。
 わたしの分のカップにお茶を注ぎ終わったとき、控えめなノックの音がした。
「失礼いたします。アルマさまをお連れしました」
「ありがとう。アルマさん、どうぞ」
 さあっと緊張の色を走らせるルリに代わって声を掛ける。じれったくなるような速度で扉が開き、そして、見慣れた長身がのっそりと姿を現した。 いつも通りの制服のまま、毎日持ってる鞄を片手にぶら下げて。
「……あの、……お邪魔します」
「どうぞどうぞ。さあ、遠慮せずに座って」
 まだ何も言えずにいるルリをちらりと見て、アルマさんは不器用な仕草で頭を掻いた。勧められた椅子に腰を下ろそうとする気配もなく、ルリの横まですたすたと歩を進める。
「あのさ、ルリさん、」
「っ、」
 びくっ、とルリが震える。我が妹ながら、なんたる臆病。悪石に対峙していたときの、あの度胸はどこへ行ってしまったんだろう。
 なんて思ってるこちらなどお構いなしに、アルマさんはちょっと困ったような顔のまま、ルリの前で手を合わせた。
「ごめん! 一緒に帰ろうって言ってたのに、俺、遅くなっちゃって、」
「えっ、や、その、」
「謝ろうと思ったんだけど、えっと、俺、ケータイとか持ってないから、……急に押しかけるみたいになっちゃって、それも、ごめん!」
 そこで勢いよく頭を下げる。つられてルリも頭を下げる。微笑ましくて吹き出したら、ふたりしてはっとなったみたいに顔を上げた。一気に顔が赤くなるのがまた、かわいい。
「もー、似たものカップルよねーあなたたちって! ほら、お茶冷めちゃうから、飲んだら? アルマさんの席はこっちね」
「あっ、ごめん、ありがとう、」
「アオイったら、そんな急かさないで……!」
 もごもごと口走りながら慌てて席に着く二人に、お茶菓子を勧める。並べられたクッキーを見た途端、アルマさんが「そうだ!」と呟いて、そしてごそごそと鞄に手を突っ込んだ。
「ルリさん、これ、」
「え?」
 目の前に差し出されたものに、ルリはぱちくりと瞬きをした。 薄紅色の四角い箱、焦げ茶のリボンの白い袋。赤地に金色の飾り文字の袋、薄緑のオーガンジーで飾られている円い箱。 透明なセロファンの中身は色とりどりのキャンディだし、水色の和紙で包まれた小箱には、小さな熊のチャームがついている。
 ……どう見てもアルマさんには似合いそうもない、小さくて可愛らしいお菓子の数々。
「もらったんだ。クラスの子たちに。俺、こういうのもらうのって、初めてでさ」
 悪びれなく言うから、こっちがどきりとしてしまう。どんな顔をしていいか分からないらしいルリが目を伏せかけた途端、アルマさんが笑った。ものすごく嬉しそうに。
「だから、ルリさんと一緒に食べようと思って!」
「えっ……」
 弾かれたように顔を上げるルリの、その目を真っ直ぐに見て、アルマさんは笑う。笑う。笑う。どんどん、花が開いていくみたいに。
「これが井上さんのくれた奴で、こっちが上原さん。で、これが芦沢さんで、これが榎本さん。菊沢さんと、笠島さんと、あと岡野さんがこれで、こっちが熊谷さん」
「たくさん……あるんですね、」
「そう、それでさ、榎本さんだったかな、これ、」
 言いながら、いちばん大きな箱を持ち上げる。
「中身、イチゴ味のパフチョコなんだって。この前昼休みに食べたとき、藍羽さんがこの味が好きだって言ってたから、一緒に食べてって」
「…………!」
 ルリの頬がますます赤くなる。血の色が耳朶にも、こめかみにも移っていく。湯気が出そうだ。
「あとさ、このクマ、上原さんがさ、目の色がルリさんに似てるって思ったんだって。それで、俺が持ってたらいいよって。 それと、こっちが、七海さんと揚羽さんと、あと部長からなんだけど、すごいんだよ部長の買ってきたチョコ、見た目が石そっくりでさ、 でも味はおいしいってみんな言ってたから、食べるのちょっと楽しみで……って、え!? どっ、どうしたのルリさん!」
 いきなりうろたえた声にびっくりして視線を動かしたら、ルリが真っ赤になったまま泣き出していた。ああ、やっぱり、睫毛が長い。 涙をいっぱいに溜めておくのがすごく、すごく似合ってしまう、ルリの翡翠色の瞳。
 ――でも。なんだか、うれしそうだ。小さかった、あの頃と違って。
「なっ、なんで!? 俺、なにか悪いこと言った!? あ、えっと、ハンカチ、じゃなくて、ティッシュ……!」
 慌てて鞄の中を引っ掻き回し始めた手が、薄っぺらいポケットティッシュを掴み出した。 ルリの方はとっくに自分のハンカチを取り出していたけれど、それでもアルマさんの手からそれを受け取る。
「ご、ごめんなさい、ちょっと、嬉しくって、」
「う……うれしくって、泣くもんなの?」
 目元を拭ったルリが笑う。……ああ、やっと笑った。よかった。たぶんもうこれで、わたしの役目は終わりかな。
「そうだ! わたし、ジュニアと約束があるんだったわ」
 え、と声を上げた二人にひらひら手を振って、わたしは椅子から飛び降りた。
「ごめんねルリ、お茶まだ残ってるから、冷めないうちに飲んでね。じゃーねアルマさん、ごゆっくり、」
「ちょっ、アオイ……」
 扉をすり抜けざまに振り向いて、言ってやる。
「最後にはルリの手作りチョコがあるんだから、あんまり食べすぎちゃーダメよ?」
「……アオイったら!」
 恥ずかしそうに怒鳴ったルリの声を扉の向こうに押し込めて、わたしは廊下を駆け出した。胸の中がわくわくしている。
 うん、いいと思う。アルマさんが嬉しそうなのは、チョコをもらったからってだけじゃなくて。それを、ルリと一緒に喜べると思ったから嬉しかったワケで。
 ああいうのって、いいと思う。うらやましくなっちゃうくらい。
 時々、不安になってしまったりもするんだろう。恋をするということ。想い想われるということ。わたしにはまだ、本当はよく、わからない。
 わからないけど、でも、いつか。――いつかきっと、わたしも。
 駆けて行く先の自室には、一昨日買ったチョコレートの箱がある。やきもきしながら待っているだろう鏡を掴まえて、ルリより先に渡してあげよう。
 勢いよく通り過ぎた階段の端に、ふっとローズマリーの匂いが香った。

――ローズマリーの花言葉:「わたしを想って」

[2012年2月]