夏の薔薇、野ばらよ
久々に帰って来た実家の、いつも見慣れた庭の中。植込みの角を曲がろうとしたら、白いものが見えた。
この辺りに植えてある薔薇は薄紅色のはずなのに、と思って足を止めた。
――ちょうど、強い風が吹いていた。おかげで、足音は聞こえなかったようだった。
夏薔薇の木陰に姉がいた。白いワンピースの襟元と、風に散らされた長い髪と、そして仰け反った首筋だけが見えた。
その姉に口付けているのが誰なのかは、木立に隠れて判らなかった。
美日子が偶にしか帰って来ない実家の庭は、いつも様々な花で溢れている。
車とレースとサーキットと、そして自分の仕事が大好きな3つ年上の姉が、花を育てる趣味を持っているというのは驚きだ。
妹の自分でさえそう思うのだから、職場でしか彼女を知らない人間が初めて自宅に招かれたときというのはちょっとした見もの。
だからそういう来客は、少し悪戯っぽい笑いと共に、姉が管理している見事な庭の散策に送り出されるのが常だった。
誰が来ているのかを母に尋ねると、昔の職場の方だそうよ、という答え。普通、人目を忍んでキスをする相手を、「昔の職場の方」とは紹介しない。
……何事にも直截的な姉がそんな風にさりげなく嘘を吐いているというのも驚きだ。
お茶を淹れるから戻ってくるように言って頂戴、と頼まれて、美日子は昼下がりの庭に出た。
呼びかけながら角を曲がったから、今度は微妙な光景には出くわさなかった。
迎えに来てくれたのね、と振り向いた姉の白い服に、夏薔薇の紅色が映っていた。
薄黄色の蔓薔薇を眺めている来客は姉と同じくらいの年頃で、印象的な黒い髪をしていた。
見たことがある。――知っている。成程、確かに「昔の職場の方」だ。
うちの妹、という姉の声を受けて、美日子は小さく会釈をした。
笑うと俄かに人懐こい印象に変わる顔立ちと、特徴的過ぎる額の傷跡を見つめながら。
出された紅茶をそつなく褒めて、甘いものは苦手だと菓子類を断って、人好きのする饒舌さを幾らか披露してから、日が傾く前に来客は去った。
午後の陽射しに照らされた庭の小道を、小柄な後姿が遠ざかっていく。薄紅の薔薇が風に揺れる。
夏薔薇の木陰。隠された口付け。顔を上げた姉。白い服。細い首。風に流された髪。肩に置かれた男の手。
「お母さまはご存じないの?」
「何を?」
外を見たまま呟くと、笑いを含んで姉が答えた。咲き零れる薔薇。夏の紅。
「『昔の職場の方』だなんて」
「嘘ではないでしょう」
「一度も、レースをご覧になっていないのかしら」
「判らなくても無理はないわよ、」
服装も髪型も違うもの、と答える声は穏やかだ。
「名前くらいはご存じじゃないの?」
「だって、名前も違ってしまっているのよ?」
「……変わった方ね」
「本当に」
間髪入れずに同意した癖に、姉の口調は誇らしげに聞こえる。
「今でも、やりとりがあるのね」
「ええ」
「どんな関係?」
「どう見える?」
振り向いた。姉は笑っている。咲いて零れる、夏の薔薇。
「……『野薔薇と少年』というところ」
答えはお気に召したらしい。口元の笑みが深くなる。薔薇の茂みの、枝の陰。
「やだわ、棘を刺したりしなかったわよ」
「どうして?」
「刺さなくたって、忘れられたりしないから」
「Ich steche dich, dass du ewig denkst an mich...」
「Ja, das ist richtig,」
微笑んだ唇が薔薇色に光る。――さっき見た彼の唇にも、この色は移っていただろうか。
「……我が姉ながら、実に大した野薔薇だわ」
「Und ich will's nicht leiden.」
「……なんでシューベルトの方なの、」
「貴女がさっきウェルナーで歌ったから」
「ひねくれもの」
「棘が多いだけよ」
「ほんと、大した野薔薇!」
薔薇色の唇が笑い声を零した。合わせるように美日子も笑った。くすくすと空気が揺れて、そして鎮まった。
「……彼は、やさしい?」
「ええ」
短く答えて、それから姉は、とても、と一言付け加えた。
「よかったわね」
「ふふ、」
誇らしげな顔。夏の薔薇。咲いて零れる、甘い匂い。
「お父さまにはまだ内緒?」
「お母さまにも、まだ内緒」
「いつ言うの?」
「いつか、言いたくなったらね」
そして、眩しいくらいに笑う。
ああ、全く、大した野薔薇だこと。そして大した少年だ。
確かに、刺さなくったってよかったのだろう。清らの色香、永久にあせぬ、とは、この姉と彼との間には起こり得ないことのようだから。
「今度いらしたらまた、私にもお話しさせてちょうだいね」
「ええ」
「……薔薇の茂みにいるときは、もちろんお邪魔はしないから」
「っ、」
思わず息を詰まらせた姉が、ぱっと頬を染めたので、美日子は声を立てて笑った。
ああ、それこそ野薔薇のようだ、と思いながら。
Heidenroslein
―― Johann Wolfgang von Goethe
Sah ein Knab' ein Roslein stehn,
Roslein auf der Heiden,
war so jung und morgenschon,
lief er schnell, es nah zu sehn,
sah's mit vielen Freuden.
Roslein, Roslein, Roslein rot,
Roslein auf der Heiden.
Knabe sprach: "Ich breche dich,
Roslein auf der Heiden!"
Roslein sprach: "Ich steche dich,
dass du ewig denkst an mich,
und ich will's nicht leiden."
Roslein, Roslein, Roslein rot,
Roslein auf der Heiden.
Und der wilde Knabe brach's
Roslein auf der Heiden;
Roslein wehrte sich und stach,
half ihm doch kein Weh und Ach,
musst' es eben leiden.
Roslein, Roslein, Roslein rot,
Roslein auf der Heiden.
野ばら
訳詩:近藤 朔風
童はみたり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛でつ
飽かずながむ
紅におう 野なかの薔薇
手折りて往かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに
君を刺さん
紅におう 野なかの薔薇
童は折りぬ 野なかの薔薇
手折りてあわれ 清らの色香
永久にあせぬ
紅におう 野なかの薔薇
[2011年5月]