サは桜のサ


「さーくーらー、さーくーらー、やーよーいーのーそーらぁは……♪」
 低く口ずさむ声がゆるゆると空気を伝っていく。ヤヨイ、というのは三月のことだったか。ならばこの歌は季節外れだと指摘してやるべきなのだろうか。
 四月。既に今季の戦いの幕は上がっている。第二戦が先週末に終わり、三週間後の第三戦に向けて、チーム全体に明るいプレッシャーが満ちている。
 はずの時期、なのに。
「かーすーみーか、くーもぉかー、あーさーひーににーおぉう……♪」
 クレアの声は愛らしくそれでいて透明で、春の空気によく似合う。
 高台から見下ろす視界を埋める満開の桜。ソメイヨシノ、というのだったか。昇り始めたばかりの朝日は柔らかな桃色を帯びて、薄く漂う朝霧はまさに匂い立つようだ。
「“桜、桜、花盛り”」
「でしょう?」
 教えられた日本語で低く合わせれば、予定調和のように微笑まれた。
 笑んだ瞳は冴えた青、どちらかと言えば硬質で、押し寄せる薄紅の波には似合わない。
 それでも、朝日に淡く照らされた頬は仄紅く、際立った蒼玉の色さえ違和感なく押し包んでしまうように思える。
「これを、見せたかったのですって。あなたに」
「気持ちは有難いが」
 滞在にも慣れた平地より、幾らか気温は低いのだろう。朝は特に冷え込みを感じる。
 とはいえ四月、ほ、と吐いた息も流石にもう白くは濁らない。
「言い出した本人はどこへ行ったんだ?」
「39℃ですって」
 くすくす笑う声が心底楽しそうなのがなんとも。今度こそ、吐きだした息は溜め息になった。
「気の毒としか言いようがないな」
「自業自得と言うのじゃなくて?」
 容赦ない言い様に信頼が透けて見える、その微笑ましさに溜め息をほどく。
「忙しいなら忙しいなりに、自分の管理はしなくちゃね。それほど若くもないのだから」
「CFチームのオーナーとしては、充分過ぎるほど若いと思うがね」
 それと、と一拍おいて付け加える。
「それはスゴウよりも更に若くない俺への忠告と取った方がいいのか?」
「あら、」
 そう言えばそうねぇ、などと呑気な声を漏らして、クレアはくるりと向き直った。
「でもねエデリー、あなたはまだまだ、年齢なんて気にしちゃダメよ」
「しとらんよ」
「ならいいわ。そのままでいてちょうだい」
「言われるまでもないが」
 ないが、実際、もう「若くはない」という自覚はあるのだ。複雑な思いがぐるりと胸で渦を巻く。
「桜はね、」
「?」
「花の盛りが短いでしょう。だからこそ日本人は、その儚い美しさを愛する」
「らしいな」
「……ってよく言われるけれどね、修さんが、違うっていうのよ」
 薄紅色の朝霧が流れる。蒼玉の瞳が細まる。かつてないくらいの、柔らかな気配を纏って。
「どういう意味なんだ」
「今は何月?」
「4月だが」
「さくらさくらは、三月の景色の歌なのにね?」
 そう、もはやヤヨイではない。眼下に満開の桜があるとしても。
 それが一体、どうしたというのだ。
「桜は一斉に咲いて、一斉に散るでしょう。そうじゃないと『桜前線』なんて言葉はないわよね」
「そうだな、」
 いつも以上に掴めない発言。知らず眉間に皺が寄る。
「だからね、エデリー、追い駆けようと思えば、何度だって満開の桜が見られるのよ。 日本列島のいちばん南から、いちばん北の端っこまで、見ようと思えば2ヶ月近く、何度だって『満開』に出逢えるの」
「……そうか、」
「だからね、」
 同じ接続詞を使って、同じような笑顔で、さっきとは違う声音で、クレアは続けた。
「エデリー、あなたは何度でも、ここで咲いて。 もしも、もしもね、“ミッシングリンクの”エデリー・ブーツホルツが枯れて散ってしまったのだとしても、それで終わりだなんて誰も思ってあげないわ」
 そして、鮮やかに持ち上がる口角。風もないのに花吹雪に包まれたような気がして、瞬きすら出来ずに立ち尽くす。
 ああ、そうか。そういうことか。こんな時期にこんなところへ、わざわざ連れて来られた訳は。
 ――まったく、なんてセリフだ。なんて女だ。そしてまったく、なんて奴なんだ、俺をここまで来させた男は!
「……つまり当分、気楽に過ごさせてはもらえないということだな」
「ええ。――よくできました、」
 すっかり馴染んだくすくす笑いが、朝の湿りに溶けていく。眼下に広がる桜色の未来に、ブーツホルツは目を細めた。

[2014年4月]