桜ヶ丘
両手を延べて丘の上に立つ後ろ姿を見ている。白い袖が、風を孕んで翼のようだ。優しく顎を上げた晴樹は、出発を待つ渡り鳥みたいに見える。
何処へ行く気なの?
訊いたってあなたは笑うだけだ。だって何処へなんて、神様にだって分からないんだから。
「空木ぃ」
相変わらず間延びした声で、晴樹は私を呼ぶ。
「ねぇ、空木ってばぁ」
「なぁに?」
「綺麗だなぁ、ここ。街中、全部、見える」
「いいでしょう」
「うん」
「桜ヶ丘っていうの」
「そういう名前なの?」
「ううん。私が勝手に呼んでるだけ」
晴樹は喉をふるわせて、空木らしいや、と笑う。陽射しが弾けて粒が舞う。
私は眼下に広がる街に目をやった。学校が多いこの街は、春が来ると莫迦みたいに桜だらけになる。初めてここに来たときの、視界いっぱいの桜が忘れられなくて、私はここに桜ヶ丘と名をつけた。ありきたりで平凡な、私なりの愛情表現として。
晴樹が私を見て、またふわふわと笑う。私も笑う。光が零れ落ち、桜が散り掛かる。
なんてありきたりな春の別れ。だから二人とも、また笑う。
「引越しはねぇ、三月のうちにしようと思うんだ」
「そう。手伝う?」
「ううん。いい。遠いし」
「そう」
ついさっき手渡された紙切れには、東京都八王子市、とあった。工夫のないアパート名と、03で始まる電話番号。それだけが、これからの私たちを繋ぐ唯一のものになる。
「仕事は、どうなの?」
「うん。ぼちぼちかなぁ。今はねぇ、八月までにってやつがひとつ来てる」
「短編?」
「うん」
「出来たら、教えてね」
「うん。手紙出す」
晴樹は地面に腰を下ろした。翼が消えて、渡り鳥はただの人になる。今度は私が立ち上がった。ぴったりした水色の長袖は、晴樹のシャツと違って風を孕まない。代わりのように、髪が大きくなびいた。
「髪、伸びたね」
ふいに晴樹が言った。
「一年生の頃は、短かったよねぇ」
「そうね。大学入ってからは、ずっと伸ばしてたから」
「昔になっちゃったねぇ」
遠い目をする。互いの名前を教えあったときは、まだ二人とも十八だった。晴樹は次の五月で、私は七月で、二十二になる。昔に思えて当然だった。
十八の晴樹は大学を出て教師になるつもりでいた。十八の私は大学で何をするかも考えていなかった。今、二十一の晴樹はプロの脚本家になるために大学をやめた。二十一の私は院試を控えた四年生になる。
私も変わったし、晴樹も変わった。生きていく場所が遠くなるのも当然で、それは別に悲しくなかった。私には、晴樹のような羽はない。おいていくなと叫ぶ気はないし、ついて行こうとも思わない。私たちは別々なのだから。
ただ、それでも晴樹をここに連れて来たのは、何かを期待しているからだと知っていた。多分晴樹も同じ気持ちでついて来た。
風が吹く。桜の匂いに満たされる。隣で、晴樹が立ち上がった。
「あのさぁ、空木」
「なぁに?」
「うん。あのね」
「だから、なぁに?」
晴樹が振り向く。まるで告白のように。
「またね。」
私は微笑む。まるで恋人のように。
「うん。またね」
晴樹は飛ぶ。何処へ? 私は歩く。何処に?
訊かれたって私たちは笑うだけだ。だって何処へなんて、神様にだって分からないんだから。
丘の上に風が吹く。
晴樹は舞い上がり、私は歩き出すためにもう少し、
まどろむ。
[09年7月]