少し、足りない


「キスしていい?」
 全部終わってしまってから、今更のように彼が訊いた。彼女の上に体重を預けたままで。
 ぱちくりと目を瞬いてみせると、彼の方では彼女の戸惑いの意味が分からないようで、ふと眉を顰めて怪訝な顔をする。
「……ダメ?」
「駄目」
「なんで?」
「こっちの台詞だわ」
 とん、とん、と忙しなく胸を叩く鼓動から耳を離して、彼が身を起こした。名残惜しそうに、彼女の胸の谷間に残った汗を指でなぞる。
 過敏になっている身体がびくんと跳ねて、彼女は悔しさに顔を背けた。そのまま呟く。
「……なんで今更、訊くのよ」
 強引に身体を繋いでおいて、散々好き勝手いたぶっておいて。なんで、今更。
「だって、」
 濡れた髪を彼女の額から払い除けて、彼は唇をすれすれまで近付けた。
「ほら、こんなにオイシイ構図なんだし?」
「馬鹿じゃないの」
「バカですよ」
 くつくつと笑うと、息が肌をくすぐる。それでも、許可が下りていないからか、触れることまではしない。妙なところで律儀な男だ。
「いいじゃん、もう。キスさせて?」
「駄目。絶対、イヤ」
「うわぁ、ツレナイ」
 唇の代わりに頬を合わせて、きゅ、とすりよせる。汗に濡れた感触は生々しく、けれど不快ではなかった。
 ――ついさっきまで繋がっていた身体だ。意外なほど、深く。今更、厭わしいとは思えない。
 けれど。
 未練がましく自分の唇に指で触れながら、彼がぼやく。
「手厳しいよなぁ。始める前なら、よかった?」
「それでも駄目」
「なんで? そんなに俺のことキライ?」
「……そんなこと、ないけど」
 くっついたままだった頬を押しやるように引き剥がして、彼を見つめる。
 邪気なく、何気なく、真っ直ぐに不思議そうに、少しだけ不安そうに、彼の目が見つめ返す。猫を思わせる、よく動く黒い目が。
「なら、いいじゃん」
「駄目よ」
「いいじゃん。好きなんだろ?」
「……貴方は、魅力的だから」
 わざとゆっくり瞬きして、何かを確かめるようにしながら、言う。
「恋に落ちるのは、簡単だと思うわ。でも、」
「でも?」
「でもまだ私、自信がないの」
 彼の目が真ん丸になった。闇夜の猫のように。そのままぱちくりと、瞬く。
「……何の?」
「貴方をちゃんと、愛せるかしら」
 ――見開かれていた目がきゅっと細くなって、彼が嬉しげに、笑った。
「……大丈夫だって。保証する」
「信用出来ない」
「ウソツキ。信じてるだろ?」
「サーキットではね」
「ベッドじゃダメ?」
「駄目」
「でも、好きだろ?」
「……まだ少し、足りないわ」
 恋に落ちるには充分でも。
「しょーがねーなぁ。じゃ、」
 ちゅ、と軽い音を立てて、彼は彼女に口付けた。唇ではなく、頬に。
「仮契約ってコトで」
「……強引ね」
「まぁ見てろって。半年だな」
「半年?」
「半年後には、充分だって言わせてやるよ」
 そんな些細な不足くらい、半年かけずに埋めてやる。いつも通りに自信たっぷりの顔で、彼は彼女に笑いかける。
「馬鹿じゃないの」
「バカですってば」
 だから取り敢えず、流されてよ。
 そう囁いた唇がもう一度頬に触れて、本っ当に強引よね、と彼女は唇を尖らせた。


[09年7月]