すべての山にのぼれ


 認めるのはどうにも癪だが、加賀は今日子の身体が好きだ。
 自覚していた訳ではない。そういう関係になって何度目かの夜、いつまで触ってる気なの?と今日子に笑われるまで、ちっとも気が付かなかったのだ。 自分がその柔らかな乳房を、しつこく弄んで離さなかったことに。
 正直、前戯が済めば用無しと言ってもいい筈のものだ。 そもそも、セックスが終わってしまえば――再度その気になるまでは――相手の女自体にそう大した用も無い。
 というのがそれまでの加賀の認識だったから、これは驚きというより衝撃だった。 つまり、思い知らされてしまったということだったから。 以来、今日子はその恵まれた豊満さで加賀をからかったり挑発したりするようになり、加賀の方は半ばは開き直って、その誘惑に溺れている。
 だから、ことが終わって気だるさに支配されたベッドの上でも、張り付いたままの身体を敢えて引き剥がさずに、肌の感触を楽しんでいることがある。
 今日子は「もう一戦」を好まない。加賀には理解し得ない部分だが、一回達してしまうと、すぐには「戻って来られない」のだと言う。 どうしてもと言えば受け容れてはくれる。それでも、苦しそうな顔をされるのは辛いし、大体、そこまでしてがっつかなければならないほどの年齢でもない。 こうして触れているだけで、それはそれで満たされてしまったりもするのだった。
 やわやわと揉むと今日子が笑う。性的な興奮とはかけ離れた、純粋に面白がっている笑いだ。
「男のひとって、へんなものよね」
「なにが?」
「なんでそんなに胸が好きなの?」
「さぁ」
 じっくり考察してみますかね、と嘯いて、手の中の乳房に吸い付いてみる。 きゃあ!とおどけた悲鳴を上げて、今日子の手が額を叩いた。
「ばか、何が考察よ、」
「んぁ? らめ?」
「……駄目じゃないけど、痛くしないで」
「ん」
「っ、強く吸わないでってば、」
「……ったって、子どもに吸わせてやるためのもんじゃん」
「貴方は赤ん坊じゃないでしょ」
「そーだけどさ」
「けど、甘えたい?」
「うん」
「ばかだわ」
 言いながらそっと髪を撫でる、今日子の声は優しい。 ついさっきまであんな声を上げて喘いでいた癖に、この穏やかさは詐欺みたいだ。
 女だって十分、「へんなもの」だよな。頭の中だけで呟いて、また手の中の塊を弄ぶ。
「ほんと、好きね」
「うん。ぜんっぜん飽きない」
「ただの、脂肪と水分の塊なのに」
「……いや、そりゃごもっともなんですけど」
「何がそんなに楽しいのかしら」
「でもほら、よく言うだろ、」
「なんて?」
「『なぜ山に登るのか。そこに山があるからだ』」
「……こんな状況でジョージ・マロリー?」
「こんな状況だからこそ」
「どういうこと」
「女のカラダの話だから。山の神様は女だっていうじゃん」
「言うけど、」
「ま、イザナミが地の神だもんな、そりゃ山だって地の一部だわな」
「……」
「山の女神は醜女だとか言うけど、サクヤビメとかの綺麗どころもいるし。あれ? ククリヒメも美人なんだっけ?」
「……だから、なんで貴方はそんなことまで知ってるのよ、」
「女神様に弱いもんで」
「初耳よ」
「あと、女王様にも」
 言いながら、不意打ちで強く吸い付いた。きゃっ、という今度の悲鳴は半分以上本気だ。 ざらりと舐め上げる舌先からの感触で、こっちまで本気になりかける。
「ばかっ、」
「触らせて。もっと」
 ぎりぎりのところで抑えながら、抗議を遮って下に手を滑らせた。汗の感触の残った滑らかな肌。
 今日子の身体は柔らかい。弛んでいるのではなくて、ただ性質としてふんわりとしている、そんな風情だ。 日頃はつんとした印象の強い、それこそ冷たく聳え立つ遠い頂のように見える女なのに。
 そう、女は山に似ている。美しい癖に険しくて、豊かな癖に厳しくて、何故だか男を惹きつけてやまない。 引き込んで、迷わせて、捉えて閉じ込めて、そして決して逃がさないのだ――男の命が尽きるまで。 そんなことを、考える。
「なに考えてるのよ」
「……女体の神秘について、というか」
「なにそれ」
 呆れ声に笑い返して、柔らかな肉に顔を埋めた。
「気持ちいい?」
「ん、」
 掌で無遠慮になぞる、柔らかな曲線。すんなりと伸びた脚、可愛らしい膝、弾力のある太腿、むっちりと張った尻。 極限まで削り上げられ削ぎ落とされたマシンとも、慎重に厳密に鍛え上げられた自分の身体とも、全然違う。
 そう、何度迷い込んでも全貌が見えない、深い深い未知の山だ。
「ほんと、好きね、」
 なのに、苦笑混じりの声音は柔らかい。それこそ赤子を相手にしているように。だから、加賀も甘えた声を出す。
「すき。きょーこさんのカラダは、ぜんぶ」
 ふっくりと薄い脂肪のついた下腹も、なだらかな曲線を描く脇腹も。重く柔らかなふたつの乳房も。
 深い深い白さと冷ややかな光を抱いた、神秘の山脈。迷い込んだらもう二度と、戻る気にさえなれないような。
『なぜ山に登るのか。そこに山があるからだ』 ――『なぜ彼女に溺れるのか。そこに彼女がいるからだ』。
 そうか、俺はとっくに遭難者なんだな、と加賀は苦笑して、気付いた今日子に少しばかり、不思議そうな顔をされたのだった。

[2011年6月]