××して
――その美貌は、天の慈悲なのか残酷か。
今日子の前で冷え冷えと微笑む男の眼差しは泉のように涼やかで、男にしては長い黒髪は、黒曜石が流れ落ちるよう。
ゆるやかな半月を描く薄い唇。興奮していない筈はない、それなのにどうして、息ひとつ乱さずに構えていられるのだろう。
「……は、」
何度目かの喘ぎ声が溢れる。短く途切れた、抑えた声、その度に男が笑みを深くする。
ぐらぐら揺れる視界は、薄く涙が浮いている所為だ。途切れなく続く快感、けれど決定的に物足りない。
長い指、冷えた唇、研いだ刃のような眼差し。足りない。それだけでは、辿り着けない。この深い深い、夜の底に。
暴力も脅迫もなかった。騙られたのでも騙されたのでもなかった。ついて来たのは今日子自身の判断、今日子自身の選択だ。
そもそも、指先しか侵入していない今では、まだ強姦とは言えない。
いや、強姦罪の定義など考えて何になるだろう。今日子自身、法に訴えて気が済むとも思えない。訴えたところで、男は冷え冷えと微笑むだけだろう。
訴えるたび、今日子が今夜のことを思い出すのを知っているから。
男の指に啼かされ、男の唇に融かされ、弱々しく啜り泣きながら達した、その記憶に苛まれることを承知しているからだ。
罪を糾弾されることなど、なんとも思っていない。見ているのは今日子だけだ。今日子以外の、誰もいらない。何もいらない。そう思っているのが、ありありと判った。
「つらい?」
囁きには仄かな笑いと、躊躇いがちな労りが滲んでいた。むずかるように首を振るのは本心ではない。意地でもない。
反射、背中の奥で折り返す無意識の反応、たぶんそれだ。
考えられない。何も。つらくない、なんてはず、ない。こわい。どこまで連れて行かれてしまうのか、判らないから、こわい。
「あ、」
跳ねあがる声が他人事みたいだと思った。心は醒めているのに、頭が茹でられたみたいに働かない。
くちゃくちゃと粘りけのある音がする。背筋に汗が浮いているのが判る。さして太いとも思えなかった筈の男の指が、理解出来ないほどの質量を持って今日子の中を侵していく。
それでも、男の行為には僅かの乱暴さもなかった。言葉には嘲りを、仕草には蔑みを含ませてくる癖に、眼差しは熱っぽく、はっとするほど真剣で。
――まるで恋でもしているようだ、と、思う。いや、……まるで、なんかじゃ、なくって、――
「ん! っ、あぁ、」
考えようとする端から思考回路を突き崩されるみたいに、内側を柔らかく引っ掻かれる。
ゆび、ほんの少し硬い皮膚の感触、ゆるゆると押し込まれて奥まで、届く、感じてしまうところ、でも、もっと奥、もっと感じるところはそこよりももっと奥で、
足りない、指だけでは足りない、別のモノで刺し貫かれなければ満たせない。
「は! ぁ、ん、」
快感にじりじり焙られて、いれて、と懇願しそうになる。いつもみたいに。
この男ではない、今日子に身体を重ねることの快感を教え込んだ別の男、快活な眼差しをベッドの上ではぞくりとするほどケダモノじみた色合いに変えるあの男に、
長い時間をかけて融かされ狂わされる、いつもの夜みたいに。
だめ、ちがう、言えない。ちがう、ちがう、だめ、やめて。やめて、やだ、もっと、ほしい、ねえ、いれて、入れて!
唇を噛み息を詰め、理性の手綱を引きちぎって転がり落ちて行ってしまう声を引き留める。涙、生理的な涙が目尻から溢れて行くのが判る、拭う仕草すらできない、もう、できない。
「つらいんでしょう?」
耳の縁を柔らかく噛まれて、びくんと身体全体が弾んだ。言わないで、至近距離、声なんか聴いたら、叫んでしまう。
「や、いや、」
「ほら」
流れ落ちてしまいそうな中に、ぐうっと指が押し込まれる。腰が跳ねる。もうだめ、火花が飛び散るみたいな目の裏側、低く艶やかな声がまた、耳元で囁く。
「――犯して、と言って」
囁きは信じがたい内容を今日子の耳に流し込んだ。そんな、拒もうとした声の、おしまいがもうぐずぐずに融けて滴り落ちてしまう。
「抱いてください、と言って。…懇願してみせて」
そうしたら、
「――――、」
「あ!」
意味ありげに大きく掻き回された指。
――上手に言えたら、ご褒美を、あげる。
使い古された台詞、音にすらされていない台詞が、今日子の脳裏を鋭く焼いた。
「あ、ぁ、ぁぁ…」
わからない。どうすればいいのか、何を言えばいいのか。唇から零れるのはみっともない喘ぎ声だけだ。
かつての今日子なら、もっと毅然と拒めただろう。泣くことも、怒鳴ることも、暴力に暴力で抵抗することにも躊躇しなかっただろう。
けれどもう、今日子の身体は、男を知ってしまっている。男の身体から与えられる、抗いようのない快楽の深さを知っている。
指だけでは、足りないのだ。何度達しても、それは本当の到達点ではない。もっと。もっと深くまで、もっと圧倒的な熱で、もっと容赦なく、犯して。
「……して、」
やっと出た声は、指示通りの台詞を紡いだ。言ってしまった方が、楽になるような気がした。そうだ、言ってしまえばいい。どうせこれが、本当のきもち。
「おかして、ください、……どうか、」
懇願の口調になる自分が可笑しかった。こんな男を相手に、どうして。
「どうか、せいいっぱい、うつくしく、」
目の縁に溜まっていた涙が、また溢れて流れていったのが判った。
「美しく、犯して、」
ひゅ、と息継ぎの音が響く。低く重なる呼吸の音。息を詰めて見守っている、男の張り詰めた気配が痛い。
「ください、……おねがい、」
ああ。これは祈りだ。懇願ではなくて、きっと。男に与えられた美貌は、その怜悧が今日子にもたらす狂おしさは、きっとそのためだけのもの。
残酷な神に身を捧げるように。爪の先まで欠片も残さず、どうか、どうか喰らい尽くして。
男の冷えた表情と、今日子の蕩けた身体とが絡み合う様は、きっと神話の頃の出来事のように、美しく見えることだろう。
「はやく、」
待ち焦がれた質量に刺し貫かれる快楽を待ち構えて、今日子は、くん、と息を詰めた。
[2015年5月/for Ms. Kafuka as commemoration of 350001-hits]