桜の季節過ぎたら


「……あ、」
 思わず声が漏れた。はっとして顔を上げ、部屋に自分一人しかいないことを確認する。
 今日子の手の中には、古いスカートがあった。柔らかく薄い、軽い素材で出来た白いスカートで、風を孕んで優雅に揺れる、お気に入りの一枚だった。
 ――だった。過去形で表される憧憬。今はもう、身に付けることはない。 だからこそクローゼットの奥深く、衣装ケースの隅っこに仕舞いこまれていたのだし。
「……まだ、あったのね」
 指先で縁をなぞってみる。ぱっと見ただけでは判らない、ごくごく小さな綻びが指に引っ掛かる。 この程度なら、気にせずに着てしまう人もいるだろう。だが今日子は許容出来なかった。 もしも誰も気付かなくても、身に付けている自分自身が落ち着かないだろうと思った。だから、お気に入りだったスカートは、残念ながらのお蔵入りとなったのだ。
 どうせ着られないのだから、とっくに捨てたと思っていたのに。 目の高さに掲げて、広げる。空調の微かな風にふわりと揺れる。暖かくなり始めた春から、風の爽やかな初夏頃までには、特に好んでよく着たものだ。 20歳の頃からほとんど変わらないウエストサイズと、6cmのヒールで引き立てられた形いい脚に、よく似合うと自分でも知っていた。
 だから大事にしていたのに。なのに、うっかりひっかけて綻びを作ってしまった。――あの時に。
 強く掴まれた手首。視界を塞いだ涼やかな瞼の形。馴染みの薄い煙草の匂い。背に当たる桜の樹の幹の、温かく乾いた感触と、……唇を押し開いた、不思議と低い体温。
 ほんの数秒だった筈だ。けれど何分間も、そのままだったような気がした。 抵抗はしたのだと思う、覚えていないけれど。気が付いたら今日子はさわさわと葉擦れの音を立てる桜の樹の根元にへたり込んでいて、男の姿はもうなかった。
 泣き出しそうだった目元を乱暴にぬぐってついでに唇もごしごしと力任せに拭いて、そうして立ち上がろうとしたら、後ろからくっと引っ張られるような感触。 あ、と思った時には布の裂ける軽い音がして、振り向いたら思った通り、スカートの端が幹のささくれに引っ掛かってしまったらしい痕跡があった。
 息が詰まった。悔しくて、目の前が白く眩んだ。こんなことで泣いたりするもんかと精一杯張り詰めさせていた気持ちが、布地と一緒に破けてしまったみたいだった。 俯いて泣いた。ぼろぼろと涙が零れて、乾いた地面に幾つも黒い染みを作った、その光景を覚えていた。
 その悔しさを、胸の痛みを、拭い切れなかった恐怖を、こみあげた悲しみを、誤魔化し切れなかった思いを、想いを、今日子は今も、覚えていた。
 覚えている。忘れられずにいる。 ――だから、捨てられないのだ。もう二度と身に付けることはない筈の、この白いスカートを。
「おーい、きょーこさーん?」
 階下からの聞き慣れた声に、はっとして顔を上げる。近付いてくる軽い足音。 何気なさを装ってスカートを他の服の間に押し込んだちょうどそのとき、開いたままにしておいた扉から、無造作に飛び跳ねた黒い髪が覗いた。
「まだ見付かんねーの? 面倒だし買っちまおうぜ、花見用のシートくらい」
「駄目よ、」
 衣装ケースに蓋を被せ、代わりに隣のクリアボックスを引っ張り出しながらぴしゃりと言う。
「なくしたら買えばいいんだなんて、あの子たちに思わせたくないもの。ちょっとは親の自覚を持ってちょうだい」
「えーそんなに気ぃ回んないもん俺ー」
「いいからさっさとあの子たち準備させちゃって。お弁当は悠に持たせてね、叶は振り回しちゃうから」
「おうよ。叶には何持たせといたらいい? カメラ?」
「もっと心配でしょ……着替えとタオルの入った袋、テーブルに置いてあるからそれ持たせて」
「んじゃ、先に車乗っけとくな」
「お願い。見付けたらすぐに行くわ」
「あんまり見つかんないよーなら諦めろよ。桜が散っちまう」
「バカ」
 うひひ、とおどけた笑い声を残して階段を下りていく気配を見送ってから、今日子はスカートの入った衣装ケースをクローゼットに押し込んだ。
 捨てない。捨てられない。もう身に付けることもないのに、もうこんなにも時間が経つのに、もうとっくに過去の話になっているのに、それでも。
 ――違う男を選んだのに、受け容れることは出来なかったのに、彼の存在を忘れ去ってしまえないのと、同じように。
 胸の奥深く突き刺さる、長い細い銀色の棘。桜の季節になる度に、ほんの少し疼く。ほんの少し心が、綻びる。ぴりりと小さく、鋭い痛みを伴って。
 いつになったら、消してしまえるのだろう。桜が枯れる頃になったら?
 ……いや、きっと、桜の季節を過ぎても。繰り返し繰り返し回り廻る、この世界に今日子が呼吸をしている限り。
 小さく胸を押さえた途端、ボックスの底に折り畳まれた青いシートを見付けた。 引っ張り出して小さく丸めて、クリアボックスを無造作にクローゼットに押し込み直して、今日子は漸く立ち上がった。
 どこにも綻びなんてない、桜色の長いスカートが柔らかに、揺れた。


[2012年4月]