たぶん運命の人なので
早朝の空気がぴりりと肌に突き刺さる。ああ、冬が近い。
シーズンが終わり、「来季」がますます重たい現実味を持って立ち上がってくる、10月の終わり、11月の初め。
「あれ? 加賀?」
横手からかけられた声に振り向くと、作業着姿のみきがいた。吐く息が白い。手袋はしているとはいえ、握り締めたレンチが如何にも冷たそうで、見ている方がぞくっとなる。
「みきちゃん、」
「おはよ。ずいぶん早いじゃん」
「おはよーさん。や、まあ、早いっつーか」
「まさか朝帰りの結果だなんて言わないでよね」
「信用ねーのな俺!」
うはははは、とふたりして笑う。こういうネタでも笑い合えるのが、みきとの会話のいいところだ。
例えばこれが今日子との会話だとすると、そもそも今日子はそんなネタを振っては来ないし、こちらからちょっと投げてみたところで、不快そうに眉を寄せるに決まっている
――まあ最近ではだいぶ柔らかくなったから、案外そうでもないのかも知れないけれど。
「で、なんでこんな早いの?」
「いんや、別に。ちょっと起きるタイミング外した」
アラームが鳴るよりも早く目が覚めてしまったからといって、うっかり二度寝などすると今度は予定通りに起きられなくなる。
一般的にもそうだろうが、加賀は人並み以上にその傾向が強かった。「寝汚い」って言うのよそういうのは、と、呆れ混じりに詰る今日子が脳裏に浮かぶ。
まあ、打ち合わせだの取材だのの場には遅れたところでほとんど罪悪感も抱かないが(その分今日子がたいそう怒るが)、さすがにレースではそうも行かないというだけだ。
「あー、あんた、あんま寝起きよくないもんね。レースの日以外」
……よくご存知で。黙って頬を掻き、話題を変えようと顔を上げた。
「他の面子は? まだ来ねぇの?」
「んー、あと10分くらいしたら来るよ。たぶん。ちょっと気になるとこがあってさ、少し早めに来たんだ」
「そっか」
一分でも一秒でも長くお布団と仲良くしていたい昨今、よくぞまあここまで爽やかに自主的早朝出勤が出来るもんだ、と感心する。
仕事熱心で誠実。加えて情熱的。それでいて、暑苦しさや押しつけがましさは感じさせないのだから、クルーに人気があるワケだ。
「好きなんだよね、こーいう時間。『ひとりじめ』ってカンジするじゃん?」
なのに、そんな風に言って笑う顔は人並み以上に可愛らしいもので、軽く傾げた首の細さも、手袋の裾に覗く手首の華奢なつくりも、なんというか罪作りだよな、うん。
実際、モテてはいるはずだ。同僚たちからもそれ以外からも。
ただでさえ女性の少ない職場だから、というのは措いといて(こんなこと口に出したら今日子辺りにセクハラだとかなんとか言って訴えられかねない)、
「ちょっといいよな」程度の発言から「どうしてあんな奴と……!」というかなり本気っぽい恨み節まで、実は結構な数を耳にしている加賀である。
……「どうしてあんな奴と」か。わからんでもないんだよな、気持ちは。
べたべた引っ付いているワケではないが、近くにいるときはいつも、仲良さそうに過ごしている。
いや、少し違うか。単に仲がいいとか、親しいとか、そういう言い方では表現できない何か。少し甘くて気恥ずかしい、初々しい気配。
――有り体に言えば、恋の気配というヤツだ。
うわ、恋、だって!
ぶっは、と吹き出しそうになるのを噛み殺して、加賀はちょっとだけ、本当にちょっとだけ目を細めてみきを見つめた。
きらきら。昇ったばかりの太陽が、彼女の背後から射して、眩しい。賢くて、可愛くて、有能で、熱心で、気さくで、鈍感で、そして純情な女の子。
冗談めかして口説いても、真剣勝負でぶつかっても、ちっとも本気で取り合ってはくれない彼女の奥底に、恋の気配を届かせるなんて。
――「どうしてあんな奴」、どころではない。特別な相手。特別な男。言うなればそれは、「運命の人」ってヤツじゃ、なかろうか?
「……なーんて、な」
「んー? なに?」
「いや、ひとりごと!」
ひらりと振って見せた自分の左手に、運命の赤い糸なんてもんはもちろん、見えない。そんなのは別にどうでもいい。
どうでもいいのだ、けれど。
……ほんの少し彼が羨ましく思えてしまったなんて、それは気付かなかったことにしておこう、と加賀は思った。
[2012年11月]