春になれば


 眩しさの所為で目が覚めた。カーテンは容赦なく開け放たれて、陽射しがまっすぐに寝床の中まで射し込んでいる。 眉間を顰めて瞬きふたつ。目覚め切れなくてまたふたつ。充分に寝たはずなのに、まだ足りないと騒ぐ体を宥めすかして、ゆっくり伸びをしながら起き上がった。
 遠く、近く鳥の声。淡い優しい空の青。春だ。なんの予定もない平日。
 新条直輝は寝癖のきつい頭を掻き回し、朝食にありつくべくダイニング目指して立ち上がった。

 小さな手を引いて、ゆっくりと道端を歩く。どちらかというとせっかちで、いつも時間が勿体無いと思う方だ。そんな自分が嘘だったみたいに、日だまりみたいに穏やかな速度。
「おーてーて、つーないで、」
「のーみぃちーをぉゆーけぇばー♪」
 調子外れはお互いさまなので、微妙に噛み合わない掛け合いもまあ、許容範囲。 途中から違う歌に変わってしまったり、なんじゃそりゃ、と吹き出しそうな歌詞が飛び出してきたりもするが、そこら辺も受け流せるようになった。 可愛らしい歌声には、その程度は見逃してもいいと思ってしまえるほどの愛嬌がある。
「あら、なおくん」
「あ。どうも、こんにちは」
「にちわ!」
 並んでぺこりと頭を下げると、かつてのクラスメイトの母親は、“なおくん”の成長に目を細めた。
「こんにちは。娘さん?」
 光を弾いてきらきらしている小さな頭を撫でながら、後半の問いかけは新条に向かってだ。
「はい。5歳になりました」
「確か、二人目が生まれたって」
「あ、そっちはちょっと風邪っぽくって。家で寝てます」
「寒かったり暖かかったりだもんねぇ」
 当たり障りのない相槌を打ちながら、ちょっとばかり心配そうな目つきになっていることに、彼女自身はきっと気付いていないのだろう。
 ――奥さんに置いてかれたんじゃなかろうか、という噂が立っているらしいことは知っている。 うん、まあ実際、地球をぐるっと半周したくらいのところにいるんだし、“置いてかれた”ってのはあながち間違いではないのかも知れないけど。
 挨拶を交わして、また歩き出す。時間の制約はない。昼ご飯を済ませてからまだ間もないし、エネルギー切れの心配もない。 鳥の声だ。あれはウグイス、あれはヒバリ。ホオジロに、レンジャクらしき声もする。
 道端にぽつぽつ灯る黄色はタンポポで、ハコベの白にホトケノザの紫、星みたいに青いイヌフグリ。冬の名残りのカンツバキ、生垣に溢れるシナレンギョウ。 梅の香りが流れてくる。気の早い蝶が舞っている。 数歩進んでは立ち止まり、何かを見付けては走って行ってしまう幼い娘の後をうろうろ追いかけながら、ゆっくりと時間が流れているのを感じている。

 どうなってるかな、開幕戦。今頃向こうは真夜中過ぎか。フリー走行2日目の朝に向けて、きっとまだどこのチームも頑張ってるんだろうな。
 昨年までは新条も、その緊張と興奮の中にいた。ほんの一年前なのに、もう、遠い昔の夢みたいだ。
 ――引退する、と口にしてから、最終レースまでは早かった。 マスコミに同業者に、家族に友人に取り囲まれ問い質され、いつも通りのレース準備と並行しての引退準備は、そりゃあもう慌ただしいことこの上なかった。
 40代まで第一線で活躍し続ける、頼もしい先達が多くいる世界だ。引退なんて早すぎる、どうした、何があったんだ、と、訊きたくなるのは分からないでもない。 でも、説明できないのだ。ただなんとなく、ああもういいかな、って思ったんだ、って。本当のことなのだけれど、納得してもらえなかった。 唯一即座に頷いてくれたのは、相棒でもあり今では妻でもあるみきひとり。たったひとりだったけど、でも、みきだったから。それで充分なのだった。

 きっと寂しく思うんだろうと思ってたけど。案外、そうでもないもんだな。
 実際にシーズンが始まった今、予想よりずっと気持ちは穏やかだ。一日がこんなに長いんだなんて、もう随分忘れていた。
 朝目覚めて、新しい毎日が来る度に、日射しの角度や水の色や、風の匂いが変わっていくのが判る。 日が落ちるのが遅くなり、洗濯物の乾きは早くなり、たどたどしかった娘のおしゃべりは段々饒舌になって、毎日、驚かされることばかり。
 ああ、そうだ、忘れていた。世界ってこんな風だったんだな。こんな風に動いているんだったんだな。おれ、結構、こういうのも嫌いじゃないんだな。なんて。

 ――いつまで、こんな日が続くのかは判らない。
「レース以外に、新条さんにできることなんてあるんですか」と、失礼な台詞を心底からって表情で言ってのけたハヤトの気持ちはよく解る。
「どうせまた戻って来てしまうんだろうさ」って鼻で嗤ったランドルの言い分にも、内心頷いてしまったのが本当だ。
 レースしかやってこなかった。レース以上に好きなものなんてない。おれからレースを取ったら、たぶん何にも残らない。
 でも、今はこれでいい。冷えた土の中で種が、次の季節を待つように。 おれの中の情熱やら何やらって奴が、また芽吹きたいって騒ぎ出すまでは、急がずに次の陽射しを待つだけだ。

「おとーさん! ねこいる!」
「え、猫?」
 ボンネットの上で寝ている猫に飛びかかっていく娘を宥めたりしながら、長い昼下がりをゆるゆる味わう、こんな日々。
 悪くはないな。いや、いいんだ、これでいい。
 怠惰に見えてもいい。もどかしく思えてもいい。きっとまた、走りたくて仕方なくなる時が来るんだろう。

 また、春になれば。
 こうやって、春が来れば。


[2015年3月]