このまま
ああ、まただ。どうしてこんなことで、舞い上がってしまうんだろう。
なんか今日、嬉しそうね、なんて言われて、はっとして気まずく取り繕って、何気ないふりを装ってお手洗いに立って。覗き込んだ鏡の中の自分の、ふわふわと紅く染まった頬。
しっかりしなさいよ、もう若くもないんだから。
鏡の中の自分に言い聞かせて、ぱん!と一回頬を叩いてみるけれど、ああ、駄目だ、目の奥がやっぱり浮わついている。
だって、迎えに行くって言ってくれたのだ。頼んでもいないのに、というか、出掛けるなんて話をしてもいないのに。
どこから聞いてきて、何を考えてそんなことを言うのか、言ってくれるのか、考え出せば暗い思考に陥るだけだといい加減学習したからそれで、
深く考えずにありがとうって言って手を振って出ては来たのだけれど。
自分の気持ちを覗き込むのも、深く掘り下げて検証するのも全力で避け続けている。それでも、嬉しそうね、なんて言われてしまうのだ。溜め息が出る。
自分が12、3歳くらいの、初々しい女の子だったならまだいい。四捨五入すれば二十歳、なんておどけていられた頃もとっくに過ぎた。
いい歳して、小娘みたいな。馬鹿みたい。期待の先には失望があるんだって、とっくの昔に解っているのに。
交際経験は殆どない。それでも、何度か恋をしてきた。
だから、判る。親しさが微妙に色彩を変える、微かな予兆みたいなもの。
覗き込んではいけない。望み過ぎてはいけない。今がとても楽しいと思うから、今がとても幸せだと思うから、それ以上のことを求めてはいけない。
だから、駄目だ、こんな程度のことで。嬉しい、なんて、思ってしまっては。
テーブルに戻ると、空いていた筈の席が塞がっていた。名前を呼ぶ前に向こうがくるりと振り向いて、先手を取ってにこりと笑う。
「迎えに来たぜ、女王様♪」
「早過ぎない? ゆっくりでいいって、言ったのに、」
「やー、ちょっと用事あんの思い出しちまってさー。んで、早めに」
用事があるのなら断ればいいのに。それでも、こうして来てくれる。嬉しい。喜んじゃいけないのに、嬉しい。
「ごめんなさい、こんな状況だから、帰るわ」
「えー、今日子、もう帰っちゃうの?」
「そりゃ、カレシが迎えに来たら帰るよねー」
「彼氏じゃないわ、」
「下僕みたいなもんですよネー☆」
「余計なこと言わないの!」
ぺしりと額を叩いてやれば、目を細めて嬉しそうに笑う。ああ、駄目だ、浮かれてしまう。だってそんなに、楽しそうな顔をするから。
じゃあね、楽しかったわ、また会おうね、バイバイ、またね。手を振って店を出て、見慣れた2シーターの助手席に乗り込む。
ふわふわとアルコールの余韻。赤くなった頬も、酔っている所為に出来る。多分。
風に当たりたくて窓を開けた。軽やかな速度が立ちのぼる酔いを吹き散らかしてゆく。
「車なのね」
バイクじゃなくて。運転席から軽い頷きと笑い声。
「雨んなるかもっつってただろ。まあ降んなかったけど」
「そうね。持ってよかった」
「酔ってる?」
「少し、」
「飛ばすけど、ヘーキ?」
「……用事って、なんなの、」
思い出して聞いた。軽い笑い声と一緒に返事が返ってくる。
「今日さ、映画やんだよ、テレビで。零時からだもんでさ、間に合うように帰りてぇなって」
「映画? なんの?」
「『不思議惑星キン・ザ・ザ』!」
「あんなもの観るの、」
「うっは、アンナモノって、知ってんだ今日子さん!」
「きらいじゃないわよ」
ぎゃはは!とますます高くなる笑い声を聞きながら目を閉じる。ああ、困った、嬉しい。
鈍感な方だと自覚している。それでも、何度か恋をしてきた。
だから、判る。楽しさがひりひりと胸を突き刺すようになる、密かな予感みたいなもの。
流されてはいけない。浮かれていてはいけない。とてもいい関係だと思うから、このまま親しい友人でいたいと思うから、これ以上の夢を見ようとしてはいけない。
だから、そうだ、こんな程度のままで。嬉しい、なんて、甘ったれた気持ちが許されている今の、このままで。
[2013年4月]