女神を憐れむ歌(―― Sympathy for ...)
大変な雪だ。予報では夜になってからだと言っていたのに、日が暮れる前から街中が真っ白になってしまった。
街に出ているクレアから、迎えの車を要請する電話があるだろうと思っていたら、着信音より早くドアチャイムに呼ばれた。
「今日子さんに会いましたのよ」
扉が開くなり、唐突に言う。おかえり、とか、どうやって帰ってきた、とか、修が口を挟む隙は一切与えずに。
荷物を受け取り、後から彼女がついてくるかどうかを確かめながら、そうか、と遅れた相槌を打った。
「どこで?」
「図書館で」
「ほう」
「ガルシア・マルケスの原書をお探しだったのですって。あら? スペイン語もお出来になるのかしら?」
「いや、出来ないだろう。彼女は英仏独伊中日のセクタリンガルだから」
「……お詳しいんですのねぇ」
不自然なほど柔らかくなった声音が怖ろしい。自分が藪を突付いてしまったことに気付いた修は小さく咳払いをした。
「それで?」
「一緒に外に出たら、この天気でしたの」
「……そうか。彼女に乗せてきてもらったわけだ」
「ええ」
呉越同舟。そんな言葉が浮かんだ。勿論、その感慨は表には出さない。
「冷静で正確なドライビングでしたわ。レーサーになれるほどの大胆さはありませんでしたけど。
ああ、それに、アオイさんのスポーツタイプは相変わらず、繊細なバランスで構成されていますわね。あのリアの曲線!」
ほう、と息を吐いて頬に手をやる。
初恋相手は車だと言って憚らないクレアだ。相変わらずの感性に小さく笑って、修は改めてその彼女と向き合った。
「で? 会話は弾んだのかな」
「それなりには。天気の話、景気の話、来期のレギュレーションの評価、FICCYの人事に関する噂……その程度ですわ」
「なるほど。それなりだね」
「今日子さんとは、会話が弾んだ例がありませんの。嫌われているのかしら」
よく言う。声に出さずに苦笑する。
もし修に、今日子を口説いた――そして何の手応えも得られなかった――経験が無ければ、
彼女たちの間には恋の鞘当てが存在しているのだと思うだろう。
それくらい、クレアと今日子のやりとりは刺々しいのが常だった。
「あら、どうして笑うの?」
流石、目ざとい。今度は苦笑を表に出して、目を上げる。
「君たちの態度が周囲の目にどう映っているかくらいのことは、当然ちゃんと解っているんだろう、クレア」
「ええ」
にっこりと微笑む。
「まったく、どうしてなのかな。近親憎悪というところかい?」
「あら、そんなに似ています?」
「どう思う?」
「心外だわ」
穏やかに、笑顔は崩さないままで。
「似ていると言われるのは不本意?」
「ええ。共通しているのは、性別くらいのものでしょう?」
「……極端だね」
溜め息に紛らわせながら、修は素早く二人の女性を比較した。
同い年ではないが、世代はほぼ同じ。未だに男性中心のCF界にあって、高い立場と絶大な影響力を持っている女性。
確かに、共通点としてはそれくらいか――他はあまり似ていない――少なくとも表面上は。
鋭敏な頭脳をおっとりした態度に隠して周囲を煙に巻くクレアと、聡明さと意志の強さを武器に堂々と渡り合おうとする今日子と。
冷静な非常識人と、倣岸なモラリスト。アイスブルーの瞳と、黒曜石の眼差し。
けれど何故だろう、何処かに、近しいものを感じるのは――周りすべてを跪かせる、華やいだ威圧感を感じさせるのは。
「修さんは、それではご不満ですの?」
「別に仲良くしてくれとは言わないが、もうちょっと穏当な関係にはなってもいいんじゃないのかな」
「どうかしらね。難しいかも知れませんわ」
「どうしてだい?」
「だって私、」
蒼い瞳がふと微笑んだ。
「今日子さんを尊敬できませんもの」
たおやかな唇で紡がれる、氷の言葉。
「……君の尊敬を勝ち取れる人間が、この世にどれくらいいるんだろうね、クレア」
「あら、あの世まで含めて考えていただいても結構ですわよ」
含めたところで、恐らくほんの数人だろう。片手の指だけで足りてしまう程度。
陶製の人形のような、儚げな美貌のこの女性は、世界有数の頭脳と批判精神の持ち主なのだから。
恐らく修とて、クレアの「尊敬できる人」のリストには入っていない。それでも。
「君のややこしいところは、」
おっとりと微笑んでいる唇に触れて、囁く。
「尊敬できないからといって、嫌いだというわけではない、というところだな」
「修さんのことは好きよ」
「光栄だね。――もちろん、尊敬までは望まない」
短く口付けて、笑った。細い指を唇にあてて、クレアが囁く。
「今日子さんのことも、嫌いではありませんのよ」
「……そうか」
「興味深い運営哲学をお持ちですし、根は可愛らしい方だとも思いますし」
「君にかかっては、女王様も形無しだな」
修の揶揄を受け流して、けれどもクレアはふと目を細めた。
「……ああ、もしかしたら、意外と好きなのかも知れませんわね。そう、」
「どうした?」
「少なくとも『近親憎悪』ではなくって……えーと、なんだったかしら……あ、そうそう、『同病相憐む』?」
修が口を挟む前に、蒼い瞳が微かに笑った。
「欲張りな恋人に悩まされたり、我侭なチームに手を焼いたりしているところは、共通点かも知れませんわね」
――ああ、そうか。似ていないはずの彼女たちの共通点。
結局どちらも、地上の男どもに振り回される、勝利の女神なのだということか。
今日子を悩ませる「欲張りな恋人」と自分を引き比べてみて、修も小さく笑った。
女神不在の空から降ってくる雪は、静かに積もり続けている。
[2011年2月]