七夕みたい
加賀の部屋にしては珍しく、その朝の訪れは静かだった。
目覚ましの音でも電話のベルでもなく、何か柔らかな気配にそっと揺り起こされたような目覚め方。
ブラインドの隙間から漏れている光は既にだいぶ強い。随分深く眠った気がする。夢も見ず、あっという間に。
――あ。
思い出した。昨夜は、……そうだ、そうだった。
もそもそと寝返りを打って、背中に触れていた柔らかいものの正体を確かめる。
穏やかに寝息を立てている今日子がそこにいた。
日頃からは想像もつかないようなあどけない寝顔。きつい命令と辛辣な批評を吐き出す唇も、紅の乗らない今は可愛らしい寝息を零すばかりだ。
「…………」
暫く、緩やかに上下する肩のラインを見ている。ゆっくりと規則正しいリズム。眠りは未だに深いらしい。
ブラインドを上げるのは止めにして、加賀はそうっと起き上がった。今日子を起こしてしまわないように、なるべく静かにドアを開ける。
――ダイニングへと抜け出した途端、自然に頬が緩んできた。
いやいやいや、この場合、多少浮かれちまってもしょーがねーってもんだよな。誰にともなく言い訳する。
まあ実際、無理もない。知り合って以来、なんと九回目の夏である。
片想い十年目突入を目前にしての、待ちに待ってのこの展開――浮かれるなという方が野暮というものだろう。
かわいかったなー、きょーこさん。思い出してまたひとり頬を緩める。
昨夜、この部屋で飲み始めた時点では、全く期待していなかった。寧ろ諦めかけていた、と言った方が正確だろう。
秋の人事で、今日子の担当が中国――今まで担当していた北米から遠く離れた大陸に、変更になると聞かされたからだ。
アメリカを本拠地にする加賀と、日本の企業で働く今日子の、数少ない接触機会が今日子の「出張」だったことを思えば、
今後に展開があるどころか、疎遠になる一方であろうことは目に見えている。
そしたら、秋から寂しくなるな。
そうね。皆無って訳じゃないにしても、……こっちに来る機会はたぶん、減ると思うわ。
貴方と呑む機会もね、と続けて笑う眼差しが少し、切なそうに見えたのは錯覚だったろう。少なくとも加賀はそう思った。
年に一度は俺の顔見ないと落ち着かないだろ、なんてからかってみた時も、正直言って他意はなかった。
なのに、今日子の方は少し、酔い始めていたのかも知れない。
年に一度だなんて、嫌だわ、と聞こえた。
思わず顔を上げると、そんなんじゃ全然、足りないわ、と続いた。
空耳ではない、らしい。急に酔いが回ったような気がした。ぐらぐらする頭を押さえながら、なんで、と呟いたら、好きなんだもの、と当たり前に言われた。
――世界が突然、ひっくり返った。
あとのことはそれこそ夢の中の出来事のようで、なんだかよく思い出せない。
断片的な記憶はところどころが妙に詳細で、それでいて全体はぼんやりとしていて、どこまでが現実だったのか疑わしくなってくる。
空になったビール瓶が視界の片隅に転がっていたこと、自分の手が酷く汗ばんで熱かったこと。
窓から覗いていた月が随分と明るかったこと、その光に照らされた今日子の髪が、絹で出来ているみたいに見えたこと。
魂が抜けたようになっていた今日子を無理矢理バスルームに押し込んだ後、汗まみれのシーツを必死で取り換えたことも、
今日子に着せる服を探してクローゼットの中身をあちこちひっくり返したことも、自分の行動とはとても思えなくて。
全く、苦笑するしかない。今時どこのティーンエイジャーだって、あんなみっともない慌て方はしないだろう。
惚れた女を前にした今、すっかり少年時代に戻ってしまっているらしい自分が可笑しくて、加賀はちょっとばかりの苦笑を微笑に変えた。
「……さて、と」
やはり、窓の外の陽射しは眩しい。時計を見ると7時半。散々泣かされた所為か、単に疲れていたのか、今日子が目を覚ます気配は無さそうだ。
ならば先にと、洗面台へ向かう。
普段ならシャワーを浴びるところだが、昨夜、ことが済んだ後にそうしてしまっているので、顔を洗って髭を剃るだけで今朝は充分なのだった。
うわ、我ながらだらしのねぇ顔。
鏡の中の自分に苦笑する。特大の活字で「でれでれ」とか「にたにた」とか書いてあるような風情だ。
元々、端正とか端麗というようなタイプではない。ましてや今日子の好みは、新条やらハイネルやら――認めたくないが名雲もだ――、
怜悧な眼差しとすっとした輪郭を持った、「綺麗な男」らしいのである。
彼女自身にはたぶん自覚はないのだろうが、緩みっぱなしの顔で向き合って、少しでもがっかりされたら立ち直れない。
もう一度存分ににやついた後、ぺしん!と自分の頬を引っぱたいてから、加賀は再び寝室に戻った。
「……きょーこさーん」
ベッドの脇で囁いてみる。瞼がぴくりと動いたようだったが、目を開けるまでには至らない。
「おーい、きょーこさーん」
屈み込んで、今度は耳元で。んん、と小さな呻き声が漏れた。眉根がきゅんと寄るのが、可愛い。
頬に触れてみた。振り払われる気配はなかった。手のひらに伝わる滑らかさに気をよくして、そのまま額に軽く口付ける。
んっ、と微かに甘い声を上げて、今度は今日子は身動ぎした。
あー、やっぱ敏感なんだなぁ。……やばい、今後が楽しみすぎる。
思わずだらしない笑い声を上げそうになって、加賀は慌てて自制した。
以前から、意外とくすぐったがりなのだということは知っていた。それにしたって昨夜の今日子の反応は良すぎた。
しかも根が素直で勉強家ときているのだから、これで期待するなという方が無理だ。
潔癖で羞恥心の強い傾向はあるものの、同時に情にほだされやすい性質でもあるので、頼み込めばきっとアレコレさせてくれるに違いない。
慣れてきたら上に乗ってもらいてーなぁ、あの胸が動きに合わせて揺れるとこ見てたらきっと興奮すんだろな、
あれで挟んでもらうってのもイイな、大きさといい柔らかさといい、あー、それイイだろばっちりだろ、
いやその前に口で可愛がってももらわなきゃ、あんまり器用な人じゃないけど、一生懸命やってくれんだろうな、
カワイイよなぁ、うわ、たまんね、そのまんま顔にぶっかけてやりたいけど、さすがにソレは怒るかなぁ。
それこそ今日子に知れたら激怒されかねない妄想を脳内で繰り広げつつ、今度は頬に口付けて、もう一度耳元で囁く。
「きょーこさーん。朝だぞー」
「ん……」
「メシにすっから、起きろよー」
「んん、……かがくん?」
「つーか、俺に起こされるなんて、女王様の名折れですヨー?」
「……うぅ、」
きゅっと顰められていた眉間の皺が一際深くなって、――それから、ぱちりと目が開いた。
「よっ。おはよーさん」
「…………」
30センチ以内の至近距離。覗き込んだ瞳が満ちる月のように丸くなって、張り裂けんばかりに見開かれて、それから、激しく瞬いた。
おっと、これは危ない。本能の叫びに従ってひょいと飛び退くと、案の定、唐突に今日子が飛び起きた。危うく額をぶつけるところだ。
「……! ……! ……!」
あー、やっぱり。純情な癖に大胆なあの態度は、多分に酔った勢いが手伝ってのことだったらしい。
酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせている今日子を見て、現実世界へおかえりなさい、などと内心で呟く。
暫く黙って見ていると、やがて今日子は口を噤んで、紅葉のように頬を染めて、それから、シーツをきゅっと掴んで俯いた。
まーかわいい。冗談みたい。コレがあの「女王様」だとはねぇ。
気を抜くと緩みそうな頬をどうにか引き締めながら、加賀はまた、きょーこさん、と呼んだ。
ぴくん、と肩が動く。戸惑った視線がゆっくりと加賀の方を向く。少し近付いて、改めて目を合わせて、おはよう、と言った。
「……おはよう」
恥ずかしそうに、今日子が答える。少し恥じらってはいるが、瞳の色が穏やかなことに安堵する。
――昨夜のことを、後悔してはいないようだから。
「まだ眠い?」
「いえ、……だいじょうぶ、」
「そっか。頭痛は?」
「そこまでのんでないわ、ゆうべは、」
酔い潰れる前にもう、押し倒されてしまったのだし。
……というところまでは口に出せないのだろう、また頬を染めて俯いてしまう。
「……あの、洗面所を借りたいんだけど、」
「あー、どうぞどうぞ。タオルはそこにおいてっから」
勝手知ったる他人の家、という奴だ。夜を徹して飲み明かしたり語り明かしたりしたことは何度もあるから、今日子もすっかりこの部屋の間取りには馴染んでいる。
――もっとも、こんな風に肌も露わな状態で居たことは、かつて一度もないのだが。
そそくさとベッドから滑り降りると、パジャマ代わりに着せてある大きすぎるシャツの下側に、ちらりと白い太腿が覗いた。
あーあの太腿も良かったよなぁ、柔らかくってすべすべしてて、こっちでもそのうち挟んでもらうかなぁ。
「…………っと、」
またにやついてしまう頬をぺしんと引っぱたいて、加賀は乱れたベッドを整えにかかった。
あまり時間の余裕はない。今日子は昼過ぎにはここを出て、夕方の飛行機で日本に帰るのだ。
話したいことはたくさんあるのに。――昨夜のこととか、今後のこととか。今まで言えずじまいだった、気持ちとか。
……いや、これは恥ずかしすぎて無理だな。お互いに。頬を染めて俯いた今日子を思い出しながら考える。
つまり、もっと時間が必要なのだ。昼だけじゃなく夜も含めて。
友達同士でいるときだって、一晩という時間は短すぎた。これから先はきっと、もっと。
もっと淋しくて、もっと切なくて、もっと逢いたくて堪らなくなる。今まで以上に、ずっと。
次に逢えるのはいつになるか。カレンダーに目をやった。7月中は予定で埋まっている――まとまった休みを取れるとしたら8月の、それも半ばになってからだ。
今日子の方はお盆休みがあるだろうから、1ヶ月ちょっと待って加賀が日本を訪れれば、たぶん次回はそこになる。
……長い。1ヶ月以上のお預けは、今までの片想いに比べればそりゃ大したことはないのだが、それでもやっぱり遠すぎる。
1ヶ月でもキツいのに、これが1年ってんじゃなぁ。
7月8日、七夕の翌朝。白々明けのシカゴの空を見上げた加賀は、年に一度しか逢えないという二人に、心の底から同情した。
[2011年7月]