雪解けの季節
久々に会った加賀は、少しいつもと違う顔をしていた。どうしたんだろう、とただいまのキスを受けながら考える。
調子が悪い、とは聞いていない。実際、先週末も表彰台に乗ったのだし、序盤の成績は上々の筈だった。
体調を崩している、という訳でもなさそうで、顔色が悪いとかやつれているとか、そういった感じは見受けられない。
何か隠しごとでもあるのか。考えてみて否定する。後ろめたいことであればあるほど、綺麗に隠し通す男だ。
なら何か、悪い知らせがあるとか。いや、多分これも違う。何か言いたそうにはしているが、気配も雰囲気も暗くはないし、悪い話ではなさそうなのだ。
じゃあ一体、なんなのだろう。――まとまらない考えを映し出したように自分の動作は緩慢だ、と思って、それから、ああ、そうじゃない、と思い直した。
緩慢というより、重たいのだ。こんな身体で加賀を迎えるのは初めてだ。前回彼が帰ってきたのは、もう三ヶ月も前のことになるのだから。
三ヶ月前と今とでは、下腹の膨らみ方はまるで違う。労わるようにそのまろやかな曲線を撫でてから、加賀はちらりと今日子を窺った。
「どうしたの?」
「産休、入ったんだよな」
「そうよ。切りよく4月から」
「予定日、いつだったっけ」
「6月10日」
「男の子なんだよな?」
「ええ。貴方が名前を決めたんじゃない」
「……だよな」
「どうかした?」
尋ねた今日子に、うん、まあ、と曖昧な返事を投げて加賀は台所へ消えた。戻ってきたときには片手に缶ビールを持っている。しかも2本も。
今日子は大袈裟に眉を顰めてみせた。
「嫌がらせ?」
「羨ましかろ」
どっかとソファの前に胡坐をかくと、けけ、とわざとらしく笑って栓を開けた。泡の弾ける音が微かに響く。
2本あっても、1本が今日子の分、という訳ではない。当分アルコール厳禁の身なのだから。
もともと酒は嫌いではない――というか、かなり好きな今日子だから、正直言って羨ましい。
こくこくとルイボスティーを啜りつつ、今日子はソファの上から加賀に羨望の眼差しを注いだ。
真夏でも無いのに、ペースは速かった。本来酒には強い加賀が、この程度で酔ってしまう筈はない。
けれども次第に、身にまとっている空気が変わっていく。少し無防備に。甘えるみたいに。
やがて、ことん、と今日子の膝にもたれかかって、加賀はぽつりと呟いた。
「……6月ってことはさ、」
「?」
「来年が、初節句になるんだよな」
「そうね、」
そういえば近所でも、あちこちでこいのぼりを見かけるようになった。妹しかいない今日子には、あの雄大な眺めはあまり馴染みのないものだ。
「うちでも、用意しなくちゃね。こいのぼりとか、兜とか」
「ソレなんだけどさ、」
「え?」
加賀は顔を上げない。今日子の膝に寄り掛かったまま、平然を装ったような声で呟く。
「俺がガキんころ飾ってたヤツがまだあんだよな、実家の蔵ん中に。贔屓目抜きに、いい出来だったと思うんだけどさ」
小さく言葉を切る。
「……くれるって言うから、もらいに行こうかと思ってんだけど」
風に吹かれた窓がかたかたと鳴る。
「……どう思う?」
――それは。今日子は目を細めた。
「素敵ね、」
心底から言った。
だってそれは、加賀が。
長いこと連絡を絶っていた実家に、顔を出しに行くということなのだ。
「いつ行くの?」
「……年末? それくらいになりゃ、一緒に連れてってもだいじょぶだろ?」
「そうね。楽しみだわ」
笑って、今日子はそっと加賀の肩に手を置いた。
「加賀くん、」
「……んー?」
「おめでとう」
少し遅い雪解けの季節に、今日子は心からの祝福を贈った。
[2011年4月]