はじまりを待つ
いつもは饒舌な彼がほんの少し無口になると、カウントダウンのはじまりだ。
いや、解っている。彼のお喋りは他人を楽しませるためのもので、本来はきっと無口なくらいの性質で、だからこれは彼が様変わりしたという話ではなく、
素の自分に戻るというか、どちらかというと“鍍金が剥げた”に近いのだろう。
早めの夕食を終え、いつも手短な入浴を済ませ、そのあとずっと、ぼんやりした顔で煙草をふかしてみたりなんかしている。ああ、きっとそろそろだ。
思った途端に立ちあがった。ほら、やっぱり。
「……んじゃ、寝るわ」
「そう。明日、6時でいい?」
「ん。ヨロシク」
「おやすみなさい」
いつもなら余計なちょっかいをかけてからでないと寝室へなんか引っ込まないのに、今夜の彼は随分と大人しい。
軽く手を振って部屋をリビングを出て行く背中はどこか周囲を拒むようで、でも、少しばかり心細そうでもある。気がする。
リモコンを手に取って、点けっ放しだったテレビを消した。時計の秒針の音ばかりが耳につく。
日付が変わる。出発の朝、長い戦いの幕明けとなる一週間が、始まる。
「……、」
きゅっと、心臓のあたりが握られたみたいに痛んだ。何度繰り返しても馴れない、緊張。無数の視線。
向けられるカメラ、目まぐるしく変わる数値、祈る手、悲鳴、喧噪、歓声。
張り詰めた横顔、パドックの背中、つきつけられるマイク、ガレージの光。流れるデータ、無数のフラッシュ、
背を押して送り出す、手を伸べて迎える、熱されたアスファルト、遠いスターティンググリッド、息を詰めて見つめるフィニッシュライン、と、残像。
「さあ、はじまるわ、」
口に出して言ってみる。わかっている、何度も繰り返して、馴れている、そんなのとっくに知っている、
始まってしまえばあっという間で、どうにかなるのだし、なるようになるんだって、わかっている、わかっているけれど、でも。
――でも、やっぱり、こわい。
閉じたまんまの扉を見つめた。薄暗がりに沈んだ廊下の向こう側、ひとりのための寝室に、ひっそりと立てこもっているであろう男の後ろ姿。
彼もそうなのだ、と、今の今日子は知っている。
きっとみんな、想像もしない。だって、加賀なのだ。
百戦錬磨、大胆不敵、自信と誇りに満ちた凄腕のベテランドライバー。勝つことしか考えていない、勝てるイメージしか持っていない、そうだろうってきっとみんなが思う、のに。
彼でさえ。きっと、開戦前夜は、こわくなる。無口になり、静かになり、視線をあまり合わせずに、早めに寝室にこもってしまう。
たぶんそれが、彼の発するごくごく弱いSOSなのだろう。
(……だからって、どうもできないけど)
諦めるみたいな、溜め息。
加賀と今日子は、別の生き物だ。違う感覚で、別の人生を生きている。お互いそれを解っている。
だから、何を求められているのでもない。求められたところで何もしてやれない。
けれどもそれを――戦いに挑む恐怖を、立ち竦む自分を、今日子には隠さなくていい、と、確かめているのだとしたら。
(だとしたら)
見守ってやるだけだ。こうして、黙って、いつも通りに。
さあ、もう眠ろう。同じ空の下、別々のベッドの中で。朝食のテーブルに着く頃には、きっといつもの飄々とした態度の仮面を被っているだろう彼の為に。
布団を被って目を閉じれば、一瞬後には明日の朝だ。
カウントダウンの続く中、街は静かに眠っている。
[2015年4月]