ふれたとき(Perhaps I've missed you.)


 コンコースを歩きながら今日子は、自分が随分落ち着いている、と考えた。 商談相手とさえ、久々に会う時には緊張するのに。
 どうしてだろう。嬉しくないのかしら。
 ……そんなことは、ない。久しぶりの邂逅だ。いつも二ヶ月くらいの間が空くのは当たり前だけれど、今回は実に三ヶ月半ぶり。
 よくそんなんで付き合いが続きますね、と、言われることが多々ある。淋しいでしょう、と、同情的に言われることも。
 言われる側としては全くの不本意、というか実感のない台詞で、未だにそう言われると返答に詰まってしまったりもする。
 別に、意地を張っている訳ではない。距離があるのも、お互いに忙しいのも当たり前で、それ以外の状態など想像できないからだ。
 だから、特段逢いたいとも思わない。会えるときに顔を合わせられればそれでいい。 本人がそれでいいというのだから、別に他人に心配される筋合いもない、のだが―― 心配される程度には不安定に見えているのだろうと思うと、そのことが少し悔しいような、がっかりするような気持ちにもなるのだった。
 ぼんやり歩いているうちに、いつの間にか到着ロビーが見えて来ていた。 広々としたガラスの扉が開いて、大きな荷物を抱えた旅人が、ぽつ、ぽつ、と出て行く。
 忙しなく駆け出して行くビジネスマンたち。賑やかな幼い声を交えた家族連れ。 出迎えの人々が手を挙げ、手を振り、時には駆け寄って抱き合う。 何を意識するでもなく、その光景をぼんやり見ながら歩いていく。荷物が少し重い。 やっぱり幾らかは航空便で送っておけばよかった、などという後悔が頭を掠めた瞬間、ついと顔を上げた彼と目が合った。
 おかしなものだ。探したつもりなど全くなかったのに、出て来さえすればすぐ、お互いを見つけてしまうのだから。 聞こえるはずもない距離なのに、彼が、よっ、お久しぶりです女王サマ、とおどけた挨拶を投げたのも解った。
 呆れるくらい自由奔放な髪はいつも通りだ。服装も、相変わらず下品すれすれの絶妙な派手さ。 ベージュの薄いコートを着た今日子の隣に立ったら、さぞかし浮いて見えるだろう。……今日子の方が。 近付いてくる姿を見ながら、非難するべきか諦めるべきか決めかねてちょっと困り顔を浮かべると、 目ざとく気付いたらしい彼がひょいと瞳を覗き込んできた。
「どしたの? ひっさしぶりに逢った愛しい俺が眩しすぎて困ってる?」
 これだから苦笑するしかない。内心を素直に表情に表しながら答えた。
「相変わらずね。久しぶり、元気そうでよかったわ」
 おうよ、と笑ったかと思うと、ほんの僅かに真剣な目になって、呟く。
「ほんと、ひっさしぶりだよな」
「ええ。本当ね、」
 気付かないふりをして笑って、彼を先導するように歩き出した。ごく自然に彼女の鞄を引き受けると、彼も並んでついてくる。
「お疲れさん。くたびれてない?」
「大丈夫よ、慣れてるもの。少しお腹は空いたけどね」
「こっちだと、夕飯時にはまだ早い……か。ホテルに着いたらちょーどいいくらいか?」
「そうね、暫く我慢するわ」
 混雑するロータリーを、彼はするりするりと抜けて行く。ヒールを高く打ち鳴らし、今日子も後からすり抜ける。
 荷物を彼が引き受けていてくれてよかった。正直にそう思う。 意地を張っても、結局彼は男だし、やっぱり今日子は女だから、基礎体力の違いは否めないのだ。 あの車借りてんだ、あんまでかくねーけど平気?と彼が顎で示したのを確認した頃には、既に軽い疲労を覚え始めている。
「やっぱちょっと、疲れてない?」
 目ざとく彼が訊いてくる。口調は軽いが、眼差しは真剣だ。 ここではぐらかすのは彼に対して失礼だと解っているから、今度は今日子も素直に答えた。
「そうね、やっぱり、多少は疲れているみたい。早く靴を脱ぎたいわ、っていうのが本音ね」
 それこそ女王様に傅くようにして助手席の扉を開けてくれた彼が、今のはダメだろ、と顔を顰めた。
「駄目? どうして?」
「日本以外じゃ、早くベッドに入りましょう、って言ってんのと同じだぜ」
 今日子を助手席に押し込み、するりと運転席に滑り込みながら言う。
「日本語の会話を、日本人以外の誰が気にするって言うのよ、」
 単なる冗談だと判っている癖に、敢えてちょっと突っ掛かってみる。 大袈裟に唇を尖らせて、それからうっかり笑った。心得て彼も笑った。 日頃離れているからこそ、こんな些細なやりとりが楽しいのだ。そう思う。
「明日、何時っつったっけ?」
「17時、じゃなかったかしら。翌日の予定がある人もいるから、ちょっと早いくらいの方がいいわ、って言った覚えがあるもの」
「んじゃ昼飯はどっかで済ませてくか。ってもこの辺あんま詳しくねーんだよな」
「プレゼントは用意したの?」
「んなもん要らねーって。今まで俺が面倒みてきてやった分で充分!」
「よく言うわ、」
「きょーこさんは? プレゼントなんだろ、あの大荷物。何買ってきたの?」
「悩んだんだけど、」
 ちょっと振り向いて、確かに大荷物だわと思いながら答える。
「ハヤトくんには、ライダースジャケット。やっぱり日本製の方が馴染みがいい、って、いつだったか言ってたから」
「ハヤト『には』?」
「ええ。あすかさんのお誕生日も、ほんの半月前でしょ? 一緒に買ってきたのよ。 あすかさんには、リクエストにお答えして色々小物を持ってきたわ」
「リクエストし合うほどの仲だったっけ?」
「予定確認の電話を貰ったから、そのついでにちょっと話したの。 ハヤトくんの好みとかサイズを確認したり、他に誰が来るのか訊いたり、」
「メールじゃなくて電話だなんて、ちょっと珍しいんじゃねーの、」
「そうね、なんだか……心配してくれてたみたいで」
 言いながら、思わず微笑んでしまう。
「心配?」
「可愛いのよ、あすかさんたら、」
 思い出して、また笑う。
「全然浮かれてないんですね、なんて言うの。嬉しくないんですか、って」
「そりゃ、あすかちゃんほどハヤトに思い入れがあるわきゃねーだろーけど、」
「あ、違うのよ、そうじゃなくて、……加賀さんに逢うの、久しぶりなんでしょう、どうしてそんなにフツーなんですか、って。 そんなこと心配してるのよ」
「夫婦揃っておせっかいだな、あいつんとこ」
 加賀も、可笑しそうに苦笑を零す。
「ハヤトくんから、何か言われたの?」
「この前会ったのはいつか、とか、どれくらいの頻度で連絡入れてるか、とか、軽く尋問された」
「それで?」
「忙しいのを言い訳にしてると、碌なことありませんよ、だとよ。ありゃたぶん経験談だな。 あすかちゃんにこってり絞られたコトがあるんだろ」
「先輩からの有り難いアドバイスって訳ね、」
「相変わらず生意気なんだよな」
「大丈夫よ、今くらいの頻度で充分。独りで泣いたりしてないから、安心して?」
「はーいはい、ありがたいことです。俺も泣いたりしてませんから、ご安心下さい女王様」
 ひとしきり笑って、それからまた話は明日の予定に移っていった。
 散文的な情報交換をしながら、ぼんやりと思い出す。 嬉しくないんですか、と言ったあすかの声。子どものように無邪気で、不躾な質問。
 嬉しくない、はずがない。彼と話すのは楽しいし、逢えるのは嬉しい。 一応、恋人なんだし。いや、世間的な基準から見てそう言い切れるのかどうかは、よく分からないけれど。
 そもそもあすかなど、れっきとした風見夫人である。 戸籍も一緒なら住居も一緒だし、四六時中とは言わないまでも、生活のほとんどを彼の近くで送っている。 それでも夫の誕生日には盛大なパーティーを企画し、服を何着も新調し、 「風見ハヤト」が話題にのぼれば、会話中の声のトーンまで変わってしまうのだ。 そんな風に振舞ったこともなく、恐らく振舞おうとしても出来ない自分には、それが羨ましくも不可思議でもあった。
 ただ幸いなのは、加賀の方がそんなことは気にもしていないらしいことで。 今日子が特段淋しがることもないように、彼の方も会いたがったり不安がったりすることはない。
 互いに忙しく、互いにやりたいことがある、バランスの取れたこの現状が心地良い。 だから、気にすることはないのだ。泊まり慣れたホテルの外観が見えてきたのを確かめながら、そう結論付けた。
 器用に車を止め、彼が運転席から滑り降りる。サーキットでもなくレーシングマシンでもないのに、微かに名残惜しそうに。 目を細めた今日子の前を横切って、彼が助手席の扉を開ける。 お疲れ様でした、女王様、と、わざとらしく深々頭を下げながら。
 ご苦労、とつんとした顔で言ってやって、恭しく差し伸べられた手を取る。 硬い皮膚、高い体温。今日子とは違う、大きな手。
 あ。
 立ち上がりながら、瞬いた。触れた途端に波が来た。
 どうしよう、もっと、触りたい。
 握った手にきゅっと力を込めた。彼が驚いたように顔を上げた。訊かれる前に、告げた。
「逢いたかったわ」
 猫のような瞳がまんまるになるよりも早く、頬に軽く口付けた。
 淋しくなんか、なかったけど。
「やっぱり、貴方に、逢いたかったわ」
 もう一度言って、微笑んだ。繋いだ手を離さないまま、助手席の扉を閉める。 言われたことを漸く理解した、という様子の彼が、少し照れくさそうに、笑った。

[2010年03月]