三角関係の終焉
「お?」
呟きが、加賀の唇から漏れた。驚きのような、感慨のような。
はしゃいだ空気の人混みの中をすり抜けて、豪奢な金色の輝きの端を掴まえた。
「っ、」
ちょいと引っ張って振り向かせると、ぶつかった視線は何とも不機嫌そうだ。華やかな緑色の瞳。
「よっ。おヒサシブリ」
「……いい歳をして、久々に会う相手への挨拶がこれか、加賀」
へらりと笑って小言を躱して、それから加賀は、ようやく相手を正面から見た。
長い金髪を後ろで束ねたカール・リヒター・フォン・ランドルは、身分と容姿に相応しい、艶やかな略礼服に身を包んで立っている。
「おまえまで来ているとは思わなかったな。そんなに暇か、最近は」
「んなワケねーだろ。万障お繰り合わせの上、わざわざ出てきてやってんのに」
「CFからは引退しているはずだろう」
「ま、一応、歴代チャンピオンのひとりなもんでな。ご招待に与かっちまっただけ」
軽く肩を竦めて受け流す。『無冠の天才』と綽名される現役レーサーは不機嫌そうな眼差しのまま、小さく顔を顰めてみせた。
「坊っちゃんこそ、俺にどーでもいい文句つけてられる程度にゃヒマなワケ?」
「バカを言うな、寝る暇もないほど忙しいさ。僕はレース以外にもやらねばならないことを山ほど抱えているんだからな」
つんと反らした顎の線の、高飛車な印象は昔のままだ。ただ、生意気な天才少年だったあの頃と違って、今のランドルには確かにある種の威厳があった。
ひとつには、デビューから10年を経ようとするベテランドライバーとしての。もうひとつは、多国籍企業の経営の根幹に携わる、ランドル家次期当主としての。
忙しいのは当然だろう。全地球的規模の二足の草鞋。
「あ、そーいやお前、引退するってマジ?」
「冗談で言うか、そんなこと」
横顔は冷ややかなくらい平静だった。軽い口調を改めて、加賀は少しばかり声を落とす。
「……本気なんだな」
「僕はいつだって真剣だ。――特にレースに関してはな」
そこで初めて、目元が笑う。既に吹っ切れている顔だ。近いうちに、公式発表があるに違いない。
「それにしたって、唐突じゃねーか」
「そうでもない」
「……なんでまた、今年?」
まだ、タイトルを手にしてもいないのだ。年齢的にはまだまだ「最盛期」を引き延ばせる24歳。大きな事故も目立った不調もなく、経済的危機があるとも聞いていない。
素朴な疑問に、ランドルは笑った。まるで年下をからかうような顔つきで。
「どうってことはない。単に、切りがいいからさ」
「デビュー10年?」
「CF20周年でもあるけどな。でも、どっちも関係ない」
「なんだよ」
「ハヤトの顔を見たか?」
唐突に言われて面喰う。ハヤトなら、さっき数分立ち話をしたが。
「長い付き合いだが、僕はあいつを初めて見るような気がしたよ。……父親になるというのは、思っていたよりずっと、大きなことらしいな」
「…………」
なるほどな、と思った。思ったから返事をしなかった。くすり、と笑みを柔らかく崩して、そしてランドルは芝居がかった仕草で頭を振った。
「あの様子では、フラウ・あすかがフロイラインに戻る見込みもなさそうだ。こうなれば、ハヤトとばかり競っていても仕方ないだろう?」
「お前、」
呆れ口調で、乗ってやる。
「まーだ競ってるつもりだったワケ? どー見たって勝ち目なんざなかっただろ、とっっっくのムカシっから、全っ然!」
そこで目を合わせて、吹き出す。けらけらと笑い合ってから、不意にランドルは真顔になった。
「まだ、競っていたんだ。ばかばかしいと自分でも思うが、ずっと」
「…?」
「手に入るなんて思ってもいない。ハヤトに勝ったからどうだなんて思わない。それでも、僕にとって彼らは特別だった」
彼女は、ではなく、彼らは、と言った。風見ハヤトという存在なしには有り得なかった、カール・リヒター・フォン・ランドルという名レーサー。
「――やっと、区切りがつけられる気がするのさ。長かったけどな」
「……、」
いくらなんでも長すぎんだろ、と笑ってやろうとして、なのに一瞬、声が詰まった。細められた翠玉色の瞳の、静かすぎるくらい静かな光。
――止まりかけた息をどうにか再開させたそのときには、一足早くランドルの方が笑っていた。
「羨ましいだろう、加賀」
「は?」
「おまえも、いい加減決着をつけてしまいたいんじゃないのか?」
「……何の話だ」
ついさっきまでの真摯な空気もどこへやら、何やら突然、雲行きが怪しい。イヤな予感に苛まれながら眉を顰めた加賀に向かって、ランドルはますます面白そうな瞳を向ける。
「言っておくが僕は、フロイライン・あすかにはちゃんと気持ちを伝えていたし、ハヤトにもきちんと宣戦布告をしていたんだぞ。
正式に開戦したからこそ、休戦なり和睦なり或いは敗北宣言なり、きっちりした区切りもつけられるということだ」
「……だから何の話なんだよ、」
「僕は曖昧なままにしておいたりはしなかったぞ、『おまえと違って』、な」
「て……」
さっきとは違った意味で息の止まりかけた加賀に、にいっ、と笑ってみせるランドル。優雅なまでの曲線を描いた唇が開いて、からかい混じりの声を放つ。
「僕の想っていた人以上に、おまえの相手は手ごわいんだろう? 何しろ女王様だからな」
「おっ、おま……なにを、」
「曖昧なままにしておくと、何一つ得られずに終わるぞ。もういい加減に認めてしまえ」
鮮やかに畳み掛けた後でふっと声を落として、一言。
「ま、もっとも、とうに手遅れなのかも知れないが――」
曰くありげに言葉を切って、ちらりと流した目線の先を、辿ると向こうの壁際で、ちょうど彼女が見知らぬ男に口説かれているらしい最中で。
「げ、」
絶句した加賀の背中をぽんと叩いて、ランドルはいかにも面白そうに笑う。
「ほら、さっさと行ってこい。僕は今年で引退するが――おまえは『また』、がんばれよ」
「……んの、ナマイキ!」
力一杯その背を引っ叩き返して、勢いよく踵を返した。人混みの向こうの壁際の、困惑気味の彼女の方へ。
あーわかったよ、わかりましたよ。お前が終わらせちまった宣戦布告、俺が引き継いで使ってやるよ。
三角関係の終幕を鮮やかに演出してのけた、年下の先達の笑い声を聞きながら、加賀は手ごわい女王様目指して駆けだした。
[2012年3月]