風台風


 午後4時。薄明るい室内にひとりでいるのは落ち着かない。
 遠くでなにか、転がり落ちたような音が聞こえた。ぎくっとして窓に額を押し付けた。
 けど、何も見えない。 目の下に広がる街は灰色で、雨粒に薄く煙っていて、いりくんだ細い路地のどこかを歩いているはずの人影なんて、ちっとも見つかりゃしなかった。
 壁の時計を見上げた。20分経っていた。いちばん近くのコンビニまで、普段なら5分かそこらしかかからないのに。
 ごうっと強い風が吹いた。窓ガラスががたがたと鳴った。 中心気圧940hPaの大型台風は、この街を暴風域に巻き込みながらゆっくりと、北北東に向かって進んでいるはずだった。

 予定よりもかなり早く、台風は街にやってきた。 暴風域の赤い色が地図上の見慣れた地形をすっぽり覆ったその時も、非常用品のチェックがまだ終わっていなかった。
「ねえナオキ、単一の電池ってあったっけ?」
「単三ならあるけど、単一はもう無いな……どうかしたか?」
「懐中電灯が点かない」
「……困ったな」
 天気予報を熱心に見つめていた彼が寄ってきて、言葉通り本当に困り切った顔をした。
「ケータイの充電が切れてなければ、それなりの明かりにはなるからまあ、いっかな?」
「それは当てにしちゃ駄目だろ。……ちょっと行って、買ってくる」
 あまりに当たり前に言うので驚いた。
「買ってくるって、今から?」
「うん。コンビニにあるだろ、電池くらい」
「でももう、外、風すごいよ?」
「まだ明るいから、何とかなる」
「ダメだよ、あんたが行ったらぜったいどっかケガするって!」
「……どうしてそんな自信たっぷりなんだ」
「だって、犬も歩けば棒に当たる、新条歩けば不幸に当たる、って言われてんだよ!」
「……そんなこと言われてるのか……」
 自他共に認める不幸体質の彼は肩を落として、それでも笑って、手を振った。
「でも、やっぱり行ってくる。……みきに何かあっちゃいけないから」
「あんたにだって、あっちゃダメだよ」
「うん」
 頷いて、でも、と繰り返す。
「でも今は、幸運の女神がついててくれるから。――うん、おれなら多分、だいじょうぶ」
「…………」
 ちゅ、と一方的なキスをして、おまじないありがとう、などと囁く。
「じゃ、いってくる」
 呆れているうちに、レインコートをかぶって飛び出していってしまった。
 傘も持たず財布も持たず、小銭をいくらか握りしめただけで。

「……なーにが、幸運の女神だか」
 ごくごく素直に涼しい顔で、とんでもないことを言ってのける男だ。頬に手を当てて溜め息。
 どこかでなにか、がしゃん!と大きな音を立てた。首を竦めて外を見た。
 けど、何も見えない。 灰色の雲は重たげで、雨粒が横向きに飛び交って、明るいような暗いような夕暮れが、どんよりとのしかかってくるだけだ。
 ごうごうと風が鳴った。折れた小枝が高々と宙を舞った。 瞬間最大風速60m/s以上。いくら超音速の世界に慣れている彼でも、平気な顔はできないだろう。
 心配になる。ただでさえ間が悪くて、運が悪くて、要領も悪い男なのに。
「やっぱ、あたしがついててやんないとだよねぇ……」
 嬉しいような困ったような気分で考える。
「でもまあ今は、仕方ないかな。……守ってくれなきゃ、困るもんね」
 そっとお腹に手を当てる。 膨らみはあまり目立たない。もちろんまだ胎動もない。有難いことに悪阻も軽い。
 これで人間ひとりここに収まっているなんて、なかなか信じられないのだけど。
「頼りないとーちゃんで、参っちゃうよねぇ、」
 性別もまだ判らない。調べてみるつもりもない。 けれどたぶん、女の子なんだろうという気がしている――「娘を溺愛する馬鹿親父」なんて役割が、あまりにも彼に似つかわしいから。
 そう、「バカ」オヤジなのは確実だろうけど。
「でもあれで、カッコイイとこもあるからさ」
 幸運の女神がもうひとり増えれば、彼の不幸体質も、いくらかマシになるだろうか。
「……呆れないで、ちゃんと懐いてやってよね」
 呟いて時計を見た途端、玄関で鍵が開く音がした。幸運の女神は立ち上がって、ずぶ濡れであろう彼のために、棚からタオルを引っ張り出した。

[2011年6月]