恋人なんていない


 しゃっしゃっと小気味よい音を立てて、鉛筆が紙の上を滑っていく。スケッチブックの上に描き出される様々なモノの形より、加賀は寧ろそれを描いている人物の方を見ていた。
 訊きたいことがあって来たのだ。そんなことを忘れてうっかり見入ってしまうくらい、器用で滑らかな作業。 真っ白な紙の上に、様々な線が引かれ、形になり、命を吹き込まれて起き上がる。まるで魔法使いだ。 よく動く手。長い指、華奢な手首。繊細で器用な指先。芸術家然として、それでいて日々の作業に馴れた手のひら。 まじまじと見すぎていたのか、手を止めたフィル・フリッツが振り向いて、不思議そうな顔で見つめてきた。
「……どうかしたの? 加賀」
「や、」
 見惚れていた、と認めてしまうのは若干癪なので、さっきから引っ掛かっているもうひとつのことを訊ねてみることにした。 真っ直ぐ見つめてくるその薄紫の瞳を感じながら、気のないふりで軽く指差す。
「見たことねぇヤツだなと思って。……それ」
「ああ、」
 これ?と自分の着ているセーターを摘まんで、フィルはにこりと微笑んだ。 うわー、なんつー嬉しそーな顔。微笑ましいと同時にげんなりした気分にもなる。 なぜって、こういう顔をするということは、加賀の予想が当たっているということの証拠に他ならないからだ。
「昨日届いたんだ。今日子さんから。誕生日にはまだちょっと早いんだけどさ」
「……へえ」
 やっぱり。そうだろうと思ったのだ。 品のいい色づかいといい、見るからに上質そうな糸といい、洗練された模様といい、如何にも今日子が好みそうなセーター。
 たぶん、手編みだろう。随分前、まだフィルが葵家の居候だった時分、彼の着ているセーターが今日子によって編まれたものだと知って、加賀は様々な意味で衝撃を受けた。 「戦う女」の代名詞みたいな今日子が、家庭的趣味の代表選手みたいな特技を持っているのにも驚いたし、 あのクソ忙しい生活の中でどうやってそんな時間作ってんだ、という物理的疑問に慄いたのもひとつ。
 そして何より、いくら同居人ったって恋人でも何でもない男にイキナリ手編みのセーターなんか贈っちゃうかフツー?という、僻み混じりの驚愕があった。
 ……俺だってそんなん貰ったコトないのに。とは、流石に口に出しては言えなかったが。 試しにごくさりげなく羨んでみせたところ、今日子の反応は「だって貴方は春生まれでしょう?」という的外れなもので、これは仄めかす程度では時間の無駄にしかならないと、 溜息混じりに色んなことを諦めたものだ。
 結局今も、今日子がそんな風に手間隙と愛情を注ぎ込んだ贈り物をする相手はフィルだけだ。 同じように可愛がっている(ように、加賀には見える)新条にもこういった手編みのプレゼントは贈られた例がなく、そちらは今日子に言わせれば、 「そんなことしたらみきさんに悪いじゃない」ということらしい。
 で、つまり。今年もこうやって手編みのセーターが送られてきたということは、フィル・フリッツには今も恋人がいない、ということだ。
 そう、フィルにはそういった交際をしている相手はいない。少なくとも自己申告ではそうだ。仲のいい子はいるけど、付き合ってる子はいないよ。いつもそう言う。
 趣味といえば絵を描くこと。レーサーだったなんて思えないくらい、優しく控え目で、大人しい青年。 ひとりふたり、付き合ったことも一応、あるにはあるんだけどさ、と言ってから笑う。でも、正直あんまり、ついて行けなかったかな。
 そんなことを思い出しながら、加賀はスケッチブックを覗き込む。幅広い題材の中に時折、見慣れた女性の姿が出て来る。 緩く波打つ長い髪と、猫のようにきらきらした瞳。優雅な仕草。気高い表情。優しい目線で、丹念に切り取られた、女王様の肖像だ。
 ……他のどの人物画よりも、その絵が魅力的に見えるのは多分、加賀自身の贔屓目の所為ばかりではないだろう。 付き合ってる子なんかいるワケがない。どうやら彼は、未だ自覚出来ない片想いの中にいるらしいから。
 アリサちゃんには、今んとこ脈ナシ、ってはっきり言ってやんないとダメかな。橋渡しを頼まれた加賀は、人の好い溜め息を吐いた。

[2012年2月]