漕ぎ出す(―― Bon voyage!)
――「シーツの海」という表現の意味が、今なら解る、と今日子は思った。
自分はまるで、嵐に襲われた小舟のようだ。大海原の真ん中で、ひたすらに翻弄されている。
色んな感触や音や匂いが土砂降りのように降り注いできて、呼吸さえ自分の思い通りにはならない。
もっとも、唇を塞がれているのだから、息苦しいのも当然だった。ぴちゅ、ぐじゅ、と音を立てて、口の内側で舌が縺れる。
奇妙だ。初めて経験することなのに、こんなに苦しくてこんなに混乱しているのに、今日子の舌は全く戸惑っていないようだった。
吸い尽くそうとするような乱暴な蹂躙に、懸命に応えようと動いている。
半分閉じかけた目は、けれど怖くて完全に閉じてしまうことも出来なくて、だから薄暗く霞んだ視界に至近距離の額が映っていた。
そこだけ引き攣れたような古い傷は見慣れたものだ。すぐ下にある筈の闊達な瞳は閉じられていて今は見えない。
綺麗な顔をしてるんだわ、と思う。表情が派手だから普段は気付かないだけなのだ。
でも、苦しそうだわ。息が出来ないんじゃないかしら。私みたいに。
考えた途端、唇が離れた。はっ、と反射的に吸い込んだ息が熱くて、知らず今日子は喉を反らした。
その喉に、当たり前のように噛み付かれる。
どうして。そんなとこ、噛み付くような場所じゃないでしょうに。いやだ、舌がくすぐったいわ。
思いはあちこちで爆ぜるのに、反論を口に出す隙は無い。雨は止まない。嵐が収まらない。
身体中の皮膚のどこもかしこも、もう、触れられていない場所など残っていなかった。
強く掴まれる。握られる。もっと、とせがまれている気分になる。汗で滑る感触さえも分かるのに、擦れた部分から火花が散りそうだ。
炎が広がる。風に煽られて、嵐に乱されて、燃え上がった意識が、途切れ途切れになっていく――
「っ!」
――違った。一箇所だけ、まだ触れられていない場所が残っていた。
嵐に翻弄される小舟の中心部。最も奥まった、柔らかでとても傷付きやすい、酷く鋭敏に神経の張り巡らされた場所。
だから、指先の触れる感覚で、閃くように正気が戻った。
「ちょっ、……やだ、!」
慌てて跳ね起きて、力一杯目の前の相手を突き飛ばす。
「った!」
危うくベッドから落ちかけたまま、ナニすんだよきょーこさん!と唇を尖らせた相手も、咄嗟に正気に戻ったらしかった。
声にも目にも、さっきまでの切羽詰った様子はない。
ないけれど、完全にいつも通りという訳でもなかった。
例えば今、何にも身に着けていないということとか。薄暗がりの中とは言え、目のやり場に困った今日子は慌てて視線を落とした。
が、その目線を掬い上げるように、ぐいと顔を持ち上げられる。
「どーしたっての」
「どうって、」
言いかけて、途中で止めて唇を噛む。俯こうとする動きは頬を挟んだ手のひらに阻まれた。
逃げようと彷徨わせた視線が、強い瞳に絡め取られる。
「……ヤになった?」
「そんなんじゃないわ、」
「じゃ、逃げんな」
「無理よ、」
「ムリじゃない」
「無理よ!」
頬を挟んでいる両手をぱしんと引っぱたいた。本気の、叩いた自分の手が痺れるような強さで。
一瞬見開かれた黒い瞳が、僅かに険悪な色を帯びるのが分かる。
「何がムリなんだよ」
「何って……」
言いよどむ。二回目だ、今度はさっきより、視線がきつい。言わずに済ませる訳にはいかない。
言葉を探して俯いたら、視線を感じて頬が燃えた。
「……いんだもの、」
「は?」
ああ、やっぱり聞こえてない。
呟くだけでも神経が焼き切れてしまいそうなのに、はっきり伝わるように発音しなければいけないなんて、
今日子には過酷に過ぎる要求だった。それでも、見つめてくる瞳の強さに気圧されて、喉に引っ掛かっている言葉を吐き出す。
「は、恥ずかしいんだもの! 汗かいてるのよ、首とか胸とかならともかく、シャワーも浴びてないのに、そんなとこ……!」
不安定に語尾の跳ね上がった訴えに、え、と間の抜けた声が答えた。
一瞬の沈黙の後、やはり呆気に取られたようなままの声が問う。
「……えと、ソレは、洗ってないトコいじられんのが恥ずかしい、ってこと?」
「う、」
最低。確かにその通りだけれど、そんなにはっきり口に出してしまうなんて。
悔しくて恥ずかしくて涙が出そうだ。というか、駄目だ、もう泣く。
じわ、と潤んだ瞳を見て取ってか、慌てたように伸ばされた手が、乱れてしまった今日子の髪を掻き回す。
「んな小せぇコト、気にすんなって、」
「小さくなんかないわよ!」
ちょっと泣き声になってしまっているのが情けなかった。虚勢だと自覚しながら言葉に険を含ませる。
「そりゃ、加賀くんには大したことじゃないんでしょうけど!
勝手に小さなことだなんて決め付けないでよ、他の女は気にしなかったのに、なんて言うのもやめて!」
投げ付けた棘には効果があった。明らかにむっとした気配で、加賀が手の動きを止める。
「……言うワケねーだろ、んなバカなこと」
「どうだか、」
「信用しなさすぎ」
「出来ないもの」
「しろ」
「させてよ」
「どーやって、」
「どうにかして」
「アンタなぁ……、」
苛立ったように細められた目に、簡単に虚勢は破られた。また、涙が込み上げてくる。
駄目だ。瞬きした瞬間、ぼろぼろと音を立てそうなくらいの勢いで、水滴が頬を転がり落ちていった。
うっ、と加賀が息を詰まらせる。不機嫌は一瞬で吹き飛ばされてしまったらしく、表情に残されているのは動揺だけだ。
ああ、駄目だ、困らせてしまう。堪えようとしたら嗚咽になった。
ますます困惑した顔になった加賀が、また手を伸ばして頭を撫で、それから、ああもう!と呻いてぐいっと今日子を抱き締めた。
「……っ、」
ばか、何やってるのよ。これじゃ涙も拭けないじゃない。
裸の胸に強く押し付けられて考えたのはそんな間の抜けた不満だったが、それを口に出す余裕は今日子には無かった。
「うー……」
「……きょーこさん、」
宥めるように背中を叩きながら、それでも困惑した口調で加賀が呼ぶ。
「俺、そんなにヒドイこと言った?」
「いってない……」
「……じゃ、やっぱり、ヤになった?」
「なってない……、」
「……まさか、泣かれるとは」
思わないだろう、それはそうだ。
加賀にとってはきっと慣れた手順で、たぶん普通の女たちは、やだ、恥ずかしい、と形だけの抵抗を示したその後は、
うまく加賀に合わせてしまうのだろう。
今日子にだって、それくらいのことは分かるのだ。……実行できないだけなのだ。
「なぁ、きょーこさん、泣きやんでくれよ……ハジメテってわけでもあるまいし、」
笑わせようとして言ってくれたのだと声音で分かったが、けれども今日子は笑えなかった。
だって実際、そうなのだから。
「……無理よ」
「頼むから、」
「だって、」
「だって、何、」
「初めてだもの」
「え?」
呟きが跳ねた。短い沈黙が続いた。それから、こわれものに触れるような風情で、加賀が口を開いた。
「……はじめて?」
「悪い!?」
その問い掛けが多分に疑いを含んだ響きだったので、ぱっと今日子の中に火が点いた。
突き飛ばすようにして顔を上げ、きっ、と音がするような勢いで睨む。突き刺した視線の先に叩き込むように続ける。
「どうせいい歳してみっともないって思ってるんでしょう、そうよね、加賀くんは経験も知識も充分にあるんですものね!」
「……思ってねーよ」
「嘘! 思ってる!」
「思ってないって、」
「思ってる!」
「思ってない」
「思ってる!」
「思ってない!」
怒鳴り合っていたら息が切れた。興奮しすぎてまた泣けた。
はっきり言って馬鹿みたいだ。ベッドの上で素っ裸のまま、肩で息をするほど罵り合って、最早何をしてるんだか判らない。
数秒続いた睨み合いのあと、加賀の方がとうとう折れた。
「……悪ぃ。知らなかった」
「……言ってなかったもの」
呟いたあとに、訊かれなかったから、と付け加える。
「うん。訊かなかった」
手が伸びてきて、頬を挟んだ。今度は振り払わなかった。怒鳴った所為で火照った頬が、一際熱くなる。
「……舌入れても、逃げなかったし。てっきり大丈夫なんだと思ってた」
「ごめんなさい」
「何が?」
「……大丈夫じゃなくて」
「んなコト、謝るとこじゃねーだろ」
額をことりとぶつけて、加賀は緩く笑った。
「黙ってても、なんとかやり過ごせるんじゃないかって思ってたんだけど」
「いじっぱり」
「嫌われたくなかったし」
「きらわないって」
「だって、……面倒なの、厭でしょう」
「……きょーこさんて、」
笑ったままの唇でキスを落として、加賀は低く囁いた。
「そーゆートコ、いっつも変わんねぇのな」
「……どういうとこ?」
「他人のことばっか心配して、自分を後回しにしちまうトコ」
「…………?」
どういうことだろう。瞬きの仕方で疑問が伝わってしまったのか、加賀の笑いが微かに呆れた様子になった。
「最初は痛かったりするって、言うだろ」
「……どれくらい、痛いの?」
「いや俺に訊かれても」
……それもそうだ。
そうなのだが、拭い切れない不公平感。男という生き物が恨めしい。
「ハジメテだって言ってくれりゃ、ちっとは、気ぃ遣ってやれるんだからさ。……なるべく、痛くないように」
「ごめんなさい、……迷惑かけて」
「謝んなって。むしろ、ありがたく思え、って言っていいトコだぜ?」
「……そう?」
よく解らずに眉を寄せると、まぁいいや、とまた笑った。
「怒鳴ったりして、ごめんなさい」
今度は真っ当な謝罪を呟いて、今日子はおずおずと唇を重ねた。柔らかさと温度。嵐の感覚が甦ってくる。
けれど、加賀は舌を絡ませては来なかった。
気を悪くしたのか、と不安になって唇を離すと、ちょっと心の準備、と曖昧な顔で笑った。
「心の準備?」
それは、どちらかというと今日子の方に必要なのではないのか――いつの間にか忘れてしまっていたが。
ひとしきり泣いたり喚いたりしてしまった所為で、今の今日子は既にすっかり落ち着いている。
「いや、なんつーか……」
そっと、加賀が今日子の手を握った。こわれものに触れるみたいにして。不思議に思う間もなく、目の奥を覗き込まれる。
「先に謝っとこうと思って」
「え?」
「努力はする。できる限り気ぃ遣う、けど」
「……けど?」
「もし痛がって泣いても、途中でやめんのはたぶん、ムリだから」
なんだ、そんなことか、と思った。
羞恥心は強くても、恐怖心は強くない今日子である。痛いの痛くないのという話は、もう殆ど気にもしていなかった。
大丈夫よ、それくらい。そう言ってやろうとした言葉は突然喉に支えて止まった。
瞬きひとつする暇さえなく、不意に抱き締められている。
背に回された腕の熱さ。強さ。彼が抑え付けている興奮の、大きさ。
ごめん、俺、とっくに限界、と耳元で彼が囁く。
「……どうしたの、」
随分、らしくないじゃない。
「だって、」
低く掠れた声。耳朶に触れる唇。嵐の前の、破裂しそうな震えを隠して。
「俺だって、こんな惚れた相手、ハジメテ」
「え……」
唇を塞がれる直前、すき、と呟いた声を聞いたように思った。
ああ、わたしだけじゃ、ないんだ。こんなにどきどきしているのは。
降り注ぐ幾つもの感触を受け止めて、ぼんやりと思う。
わたしたち、ふたりとも、いま、こんやが、はじめてなんだわ。
そう、今夜は到達点ではない。長い長い冒険の旅の始まりだ。
頼りない小舟で、嵐の海に漕ぎ出す。漕ぎ手の彼さえ、緊張に手を戦慄かせているような状態で。
全く、なんという処女航海だろう! どきどきする。くらくらする。愛しさで、息が止まりそうになる。
――じゃあね、私、いってらっしゃい。それでは、どうぞよい航海を。
押し寄せてくる波に身を任せながら、今日子は小さく、シーツの海に向かって微笑んだ。
[2011年2月]