おひめさまになれない


 23時53分。ヘアドライアの電源を切った。風音に掻き消されていたCM音声が今更のように今日子の耳に届き、そこで漸く、TVが点けっ放しになっていたことに気付く。
 手を伸ばしてコントローラーを取る間に、CMは新しいものに切り変わっていた。 品よく耳に絡むピアノの音色はジャズ仕立て。今日子には弾けない、緩やかに神経を炙るようなリズムだ。
『女の子はみんな、お姫様なの。』  15秒間のCMの最後、愛らしい囁き声がテロップに合わせてキャッチコピーを読み上げるのを聞き届けてから電源を切る。 先週末から放映されている、アオイの、新しい軽自動車のTV-CMは、評判も反響も上々だという話だった。
「…… Someday, my prince will come, someday, we'll meet again,」
 ジャズピアノは、今日子には弾けない。弾けない代わりに口ずさんだ。掠れた声がひとりの部屋に反射して、湿度が少し、増したように思った。

 よく出来たCMだと思う。素直に言えば、結構好きだ。と、プロジェクトリーダーに直接伝えてやったら、彼女はどんな顔をするだろう。
 頬を紅潮させた子どもっぽい面影が浮かんだ。先月22歳になったばかり、高卒採用からぐんぐんと出世街道を駆け上っている、販売企画部の注目株。
 かわいい子だ、と評判だった。顔立ちがではない。身に纏う雰囲気が、愛さずにはいられないような何かを含んでいる。 少し不器用で、時々周囲とずれる言動をするところ。生真面目な努力家で、それでいて人懐こいところ。芯の部分がどこか頑固で、瞳の奥が揺るぎないところ。
 好ましいと思った。羨ましいとも思った。彼女の若さや、真っ新さや、率直な眼差しが眩しかった。――愛されて当然だと、思った。

 つい先日彼女と婚約した、恋人は三歳年上なのだという。 東北支部のPM部門に所属しているという話なので、今日子自身も顔くらいは見たことがある筈なのだが、生憎と名前も姿も記憶には無い。 それでも、彼女が語る「彼」の為人は贔屓目を抜きにしても好ましく、 今度会う機会――恐らく結婚披露宴なのだろうが――があれば、自然と好意を抱くことになるのだろうとは思っている。
 きっとお似合いの二人だ。誰からも愛され、誰からも祝福される、可愛らしいカップル。
 妬ましくない、と言えば嘘になる。憎らしい訳では無いにしても。

 何気なく廻らせた視線が暗いTVモニタの上で止まった。自分の顔が映っているのをぼうっと眺める。
 疲れた顔だ、と思う。自虐ではなく事実として。他人が、例えば自分の部下がこんな顔をしていたら、休養を取れと小言をくれてしまうに違いない。 ……休んだくらいでどうにかなるとも思えないけれど。
「And away to his castle we'll go, to be happy forever I know... 」
 ゆるゆるとほどける、ピアノの音色が頭から離れない。いつか王子様が、と歌う、白雪姫に憧れた頃の今日子は何歳だっただろう。 今の今日子とどれくらい違うのだろう。生きてきた年月も、重ねてきた経験も。甘やかな憧れの、純粋さも。
 小さく頭を振って、濁った思考を振り払う。寝室へ引き取ろうと灯りを消した途端、最低音量に絞ったモバイルの、呼び出し音が鳴り始めた。
[So-me day, my prin-ce will-come, so-me day, we'll mee-t a-gain...]
「…………っ、」
 口ずさむことも出来ずに息を詰める。柔らかなピアノの音、低く甘く絡む掠れた女声、温かな暗闇に似つかわしい、酷く優しい淫靡。
 勝手に設定された着信音を、今も変更出来ずにいる。鳴る度に、呼ばれる度に、心臓がぎゅっと握り潰されるような気持ちになるのに。それでも。

(――つーか、こんだけプリインストールがあるっつーのに全員おんなじ機械音の呼び出しとかありえねーだろ、)
(ちょ、勝手に何してるのよ!)
(まーまー。ちょっとしたサービス? っつーか?)
(人のケータイをっ……)
(いーから! ほらよ、コレとか、どーよ?)

 女王様にもちゃーんと王子様が見付かるコトを祈って、俺が鳴らしてやっからな!
 ふざけたことを言い放って笑った、そのときの彼は何歳だっただろう。今の彼とどれくらい違うのだろう。 見えている景色も、抱えている記憶も、隣にいる誰かの、姿も。

 そう、近々横浜に寄るかも知れない、と言っていた。そうなったら連絡するから、とも。 今は――リヴァプールだったか、いや、ストックホルム?  どこから、どれくらいの時差を超えて電話を鳴らしているのか、把握すら出来ていない自分に小さく苛立つ。 そんな状況で電話を掛けて来る相手にも、まるで何かを見越しているかのようなタイミングにも。
 何ヶ月も会っていなくったって、話しもしていなくったって、今電話に応えてしまったら、きっと彼は見抜くのだ。 弱っていること、憂えていること、少しばかり沈んで、顔を上げるのを躊躇っていること。
 だから、出たくない。こんなことには、気付かれたくない。
[And away to his castle we'll go, to be happy forever I know... ]
 呼び出し音は鳴り続ける。甘く掠れて、ひそやかに。
 いつか私にも春が来て、小鳥たちが歌うの、祝福の鐘が鳴り響いて、いつかきっと、私の夢が叶うの……
 王子様なんて来ない。私はお姫様じゃない。なあ、女王様、と、笑い混じりに囁く声が響く。
「……要らないのよ、」
 そんな肩書き、必要ない。王子様なんかじゃなくったっていいのだ。ただ、貴方だと、確信したいだけ、なのに。
 ゆるゆるとほどける、甘い旋律。辿り着かない「いつか」に向かって、時計の針が零時を指した。

[2013年6月]