星合の恋人
「……あ、」
風が吹いて、頭上で、さああ、と音がした。振り仰いだら一面に、色とりどりの短冊が揺れる。
「わあ、キレイ!」
「…たなばた?」
そうだ、もうすぐ七月だ。時折通るアーケード、一体いつから天井に、こんな飾りが現れていたのだろう。
それだけ、毎日が慌ただしすぎるということの証拠かもしれない。少しばかり反省。
隣ではしゃいだ声を上げている女の子たちに、笹でも買って帰る?と提案してみると、諸手を挙げて賛成された。
イベント好きは“CFサーカス”構成員の性だろうか――実際に転戦している訳ではないにしても。
後方支援なんて今日子の柄ではないのだけれど、年齢も立場も、自分だけではどうしようもない。
こんな季節を日本のオフィスで過ごすなんて、出場停止を持て余していたあの夏以来なのではないだろうか。
それでも全く暇にはならないのだから不思議だ――昼休みの外食を終えて机に戻れば、未処理の書類と未開封の封筒が、また複数ずつ増えている。
TV局からの取材申し込みに、新車種レビューが載った雑誌の謹呈、春期分の分析報告書と、研修社員のレポート、面接予定の採用候補者たちの履歴書の束。
取り敢えず表紙をAOIの最新モデルが飾っている雑誌を手に取ると、昼休みの残り時間をぼんやり考えながらページを繰った。
「あ〜、さっすが! 最優先チェックですか〜?」
「サスガ? なにが?」
遅れて戻ってきた女の子たちが、何やらきゃっきゃとはしゃぎながら寄ってくる。
「え〜、だって、ヴィーグラの今月号ですよね? 巻頭インタ、加賀さんじゃないですか!」
「…………」
そうだった。すっかり忘れていた。中ほどまで進んでいた手の中の雑誌のページを幾分繰り戻すと、確かに見慣れた顔がカラーページを飾っている。
うん、見慣れてはいるけれど。
ページを押さえる指先が、ちょうど彼の頬の辺りに触れていた。滑らかに見えて案外、乾いた手触りのする。寝起きには微かに髭の感触がある。よく知っている肌。
実際に触れたのは、もう2ヶ月以上前のことになるだろうか。
「今頃はモントリオールですか〜」
「えーと後は、シルバーストン、モンツァ、スパまでやったら一区切りですよね? 帰省されるんですか?」
「そうね、暫くはこっちにいると思うわ」
どこかで顔出すように言っとくわね、というと、またはしゃいだ声が上がった。かわいいなぁ、と思うと小さく笑みが浮かぶ。
「夏休みの予定は決めた?」
「まだですー。友だちの休みがまだはっきりしなくて」
「私もトモダチと会います! この時期しか会えないんで!」
「たなばたさまみたいね」
「女の子ですよぅ!」
また一頻り、華やいだ笑い声。
「どっちかってゆーと、今日子さんの方が織姫さんじゃないですか?」
「じゃあ、太平洋が天の川かー」
「そんな柄じゃないわよ。カササギを待ってる暇があるなら空港に向かうわ」
澄ました顔で言ってやると、納得!とはしゃいだ笑い声。かぶさるように13時のチャイム。
慌てて座席へ戻って行く後ろ姿に笑いかけて、改めて手元に目を落とした。
世間はこれを、遠距離恋愛、というのだろう。実際今も、向こうは地球の裏側に居て、今日子とは全然違う時間帯を生きている。でも。
――でも。思ってたほど、淋しくないわね。
ふふ、と口元が綻ぶ。形の無い不安を持て余していた頃のことを思い出す。今日子のことを織姫さんなどと呼んだ、あの子たちくらいの年齢だった頃だ。
それももう、随分と前のことになってしまった。
些細なことできらきらとはしゃげる、あれくらいに若い頃だったら、この恋愛もまた少し違ったかたちになったのかも知れない。
それとも、相手が彼ではなかったら。それもまた幾らか違ったものになったのかも知れない。そんなの、分からないけれど。
視線を落として、目を閉じる。忙しさに押し潰されそうなとき、些細な悪意に傷付いたとき。決断のプレッシャーに立ち竦むとき、大きな失敗に落ち込んだとき。
そんなときに近くにいてくれないのは、つらい、んじゃないかと思っていた。離れてしまうのは、不安だった。けれど。
大丈夫。今日子はもう知っているのだ。彼にももちろん解っているのだ。傍に居なくったって、距離が離れていたって、互いにちゃんと支え合えるのだということを。
――だから、淋しいというより、むしろ。
(ただ、会いたいなって、思うわ)
いつも思う。毎日のように思う。つらいからではなくて、淋しいからではなくて、ただ会いたいなぁって思って笑う。
嬉しいときほど、会いたくなる。いいことがあったら、話したくなる。楽しかったことを聞きたい。面白かったことを知りたい。
よかったな!って笑ってほしいし、よかったわね!って笑ってあげたい。そんな気持ちになるのだということを、今の今日子は解っているのだ。
だから思う。星祭りの夜にだけ逢瀬を許される恋人たちも、案外、そう淋しがってはいないのかも知れない。
織女は機を織り、牽牛は田を耕し、それぞれの仕事を誇らしく全うしながら、会ったらどんな話をしようかなんて考えているのかも知れない。口元に小さな笑みを乗せて。
雑誌を閉じて顔を上げると、壁の時計は13時02分。彼の居場所はまだ真夜中だ。見上げた空に、星は瞬いているだろうか。
買ってきた笹に短冊をかけたら、その写真でも撮って送ってやろう。ついでに、今度の帰省の予定も訊こう。書類の束を取り上げながら、今日子は遠い夜空を思った。
[2014年6月]