水の流れてゆくところ


 ――真夜中にふと目が覚めた。さらさらと水の音がする。
 すぐ傍を流れる川の音に耳を洗われるまま、輝島ナイトは少しの間、身動ぎもせずに横たわっていた。

 月は天心を通り過ぎた頃か。窓から射し込む光は清らかに明るい。視線だけをゆっくりと廻らすと、部屋の様子がよく見えた。
 カーテンのない窓は殺風景だが、閉鎖空間にばかり居続けたフェイにとっては却って気持ちいいものらしく、 窓から雲が見える、星が見える、飛行機が見える鳥が見えると言ってはよく笑う。
 今、月の光に映し出されているその寝顔は相変わらずあどけなく、そして儚げに見えた。
 かつてよりは栄養状態もよく、精神的な不安もかなり減らすことが出来た。 血清の為に体に負担をかけることもなくなったから、あの頃よりは随分、血色もよくなっているのだが。

 ……初めて出会ったときは、もっとずっと、本当に幼かった。
 碌に口も利かず、決して他人と目を合わせようとはせず、兄の背に隠れて震えていた。
 衣服の裾をきつく握りしめた小さな手が、恐怖のあまり白っぽく変色していたことを覚えている。

『おまえは、なんのためにたたかっているんだ』
 真っ直ぐな目で問うてきた、水のように静かな彼の声。
 あのときから、……劉紅玉と出逢ったあのときから確かに、ナイトの人生は変わり始めた。

 いきるためだけにいきるのではなく。
 ころされないためにたたかいつづけるのではなく。
 いつかここから抜け出して、誰にも奪えない自由を手に入れてみせる、と、その夜、ナイトは思ったのだ。
 彼の眼差しから呼び起こされる、限りなく広がる海原のイメージそのもののような、果てのない自由を。

「……ん、」
 小さな呻き声に物思いは途切れた。視線を向けるまでもない。大きすぎる体を不器用に丸めた丹童子アルマが、寝返りを打とうとしてどこかに引っ掛かったのだ。
 不便なものだ。大体、あの体格でこんな小さな家に住んでいるというのがおかしい。藍羽ルリの家に同居すればいいだろうに。 あの家の寝室は広かったし、置いてあるベッドもあの女にはもったいないと思えるくらい広かった。この男の身長でも充分に手足が伸ばせるだろう。
 そう言ってやったら真っ赤になって否定されて、挙げ句に、「藍羽さんには絶対そんなこと言うなよ!」と何度も念を押された。 もちろん、藍羽ルリを相手に、そんな軽口を叩いてやるつもりはない。藍羽財団は頼りになる存在ではあるが、完全に信頼している訳でもないのだ。――まだ。

「ニンゲン」との距離を測りかねたままのフェイと、周囲に裏切られ続けて来たナイトにとって、誰かを信頼するというのは簡単なことではない。
「セイクリッドの力が正しく使われる世の中に、一歩でも近付いていけるように」
 騒ぎが終わって、漸く静かな光の中で向き合ったとき、自身もセイクリッドテイカーである財団代表はそう言った。
「――こんなことを言ったところで、信用してもらえるとは思っていません。むしろ、警戒されて当然だと思っています」
 冷静で、賢明な物言いだった。フェイと大してかわらないように見える、まだ少女と言っていいくらいの女なのに。
「藍羽財団には力があります。あなたたちを怯えさせても仕方ないくらいの力が。ですから、こちらから恩を着せるような真似はしたくありません。 その代わり、もし援助を求められれば全力で、応えさせてもらうつもりでいます」
「わたしがいた方が都合のいいことが、アナタにもきっとあるでしょうしね」
 付け加えた双子の姉――外見上はフェイより幼いくらいだが――も、同じように聡明な目をしていた。

 そう、暴走したフェイを抑えられたのは、善石の力を持つこの女がいたからだ。 恩を着せられても仕方ないと思っていたが、予想に反して、藍羽財団を背負う双子の申し出は好意的なものだった。
 消耗した体力を取り戻すまで、藍羽家の屋敷に滞在して構わない。
 可能なら、研究所で行われていたことや、自身が把握しているセイクリッドの力の詳細について教えてもらいたいが、それについては無理強いはしない。
 信用できないと思ったら、遠慮なく断ってくれていい――。
 魅力的な申し出ではあった。完全には信頼していないが、警戒しなくてもいい相手だとは思い始めていた。何より、フェイをゆっくりと休ませてやりたい。
 もっともフェイ自身は藍羽家の壮大な佇まいに気後れしたらしく、こんな広いとこ落ち着かないよ、と躊躇う様子を見せた。 物心つく前から研究所の個室に閉じ込められ、脱走してからは人目を避けて樹海の奥深くに潜んでいる日々だったのだから無理もない。
 結局、妥協点として、横須賀市街に程近く、かと言って賑やかすぎもしない、丹童子アルマの自宅に「一時的に」留まることになったのだ。

 日中は世間に慣れるために近所を歩いたり、時折、藍羽家に出向いたりする。 丹童子が受けているという身体的な訓練に付き合ったり、メイド隊(というらしい、若い女どもの集団)が所持している武器のメンテナンスを手伝ってやったりすることもある。
 そして夜は、体格のいい丹童子にとっては独り暮らしでさえ狭いであろうこの部屋に、こうして三人が窮屈にひしめき合って眠る。
 もともとあったベッドは全会一致でフェイの使用にあてられた。 鏡から手渡された寝袋は、丹童子にもナイトにも些か窮屈なものだったが、結局、丹童子が長い手足を縮めて寝袋の中に納まり、 ナイトは薄い毛布だけを被って畳に直に転がって眠ることになった。
 狭いということを除けば、そう居心地は悪くない。人声や車の音に悩まされることも滅多になく、すぐ側を流れる川の音は心地いい。
 ふいに襲ってくる副作用に悶えることもないし、悪夢にうなされたフェイが泣きながら飛び起きてくるようなこともない。 どうにか寝返りを終えたらしい丹童子も、今は静かに眠っている。

 廻らせた視線が、その寝顔の上で止まった。 斜めに差し込む光を受けた顔立ちは端整で、体格に相応しくくっきりと彫りが深いのが判る。目元に零れた影の所為で、睫毛の長さが際立って見えている。
 おかしな奴だ。今更のように考える。同じ力を持ち、その力ゆえに同じように苦しんできた癖に、この丹童子という男はナイトとは考え方も生き方も全く違っていた。 こんな風に近い距離で眠ることになるだなんて、想像したことすらなかった。

 親しくとは言わないが、気兼ねなく口を利くようになってきたあるとき、どうしてそうなったか忘れたが、互いの過去について話をしたことがあった。
 劉紅玉という男の話をしたら、ああ、そうだったのか、と何か納得したように頷かれた。
「いつか、訊かれたよな。おまえはなんのためにたたかう、って」
 言われて、咄嗟には思い出せなかった。
 ――あの頃しばしばぶつかりあった相手が、今目の前にいるこの人の好い男だと、瞬時には認識出来なかったから。
「あのあと、ずいぶん迷ったんだ。悩んだ。理由なんて必要あるのか、ってところから」
「…それで?」
「今なら、ちゃんと言える。理由なんかいらない。目的も。俺を大切にしてくれる人がいて、――俺もその人のことが大事だから。 だから、俺に出来る精一杯のことをしようって思うだけなんだ」
「……相変わらず、単純な頭だ」
 辛辣な感想にも、丹童子は黙って笑うだけだった。柔らかく細まる、一風変わった色の瞳。
 深い海の底ではなく、空の青を映す川面のように見えるその目がふと正面からナイトを見て、そして、穏やかに問いかけた。
「お前は?」
「は?」
「お前は、何のために戦うんだ?」
「……オレは」

『おまえは、なんのためにたたかっているんだ』
 かつてナイトにそう問いかけた少年は、フェイを守るために戦っていた。

 オレは?

 ……ただ、生きるために。

 それから、自由を手に入れるために。

 そしてやがて、彼に代わってフェイを、
 ――大切な、幼い家族を、守るために。

 今は?

 幼かったフェイは、出会った頃のナイト自身よりも年上になった。眠らせたままだった力は覚醒した。
 逃げ続けなければならないような追手も、戦い続けなくてはならない相手ももういない。本来なら、もう、フェイにナイトは必要ないのだ。
 ……ナイトにとっても同じこと。最早血清を必要とはせず、能力自体を使うことさえほとんどない今となっては。

 それでも、こうして傍にいる。

「…オレは、」
「うん」
「オレ自身とフェイのために、戦う」
「……うん。そうだな」

 否定も、それ以上の問いかけもなかった。その時の会話はそれで終わった。見上げた空が妙に清々しかったことを覚えている。
 そう、まるで今の澄んだ夜空のように。

 横たわったまま、視線を窓の外に向ける。鮮やかな月が見ている。ほんの少し前まで、美しいと思う余裕すらなかった銀の月。
 ――みて、ナイト、おつきさまがきれい!
 指差してはしゃいだフェイの笑顔が、やけに眩しく見えたことをふいに、思い出した。

 ああ、丹童子の言う通りなのかも知れない。理由なんか、いらないのだ。
「ナイトの隣が、僕の居場所だよ」
 フェイがそう言ってくれるから。
 そう言ってくれることを、ナイト自身が嬉しいと思うから。
 だから、ただ、精一杯のことをしようと思うだけなのだ。

 さらさらと、水の流れる音がする。すぐ近くを流れている川の、緩やかな水面の揺らめきを思う。
 ……先へ先へと流れてゆけば、いつか、川は海へと繋がるから。
 失ってしまったあの穏やかな瞳に、またどこかで出逢えるはずだから。

 ――だから、川の流れる音が聞こえるここからもう一度歩き出したら……いつか、きっと、辿り着ける。
 閉じた瞼の裏側に、懐かしい笑い顔が映ったように思った。

[2012年1月]