花待月(――in the middle of February.)


 もちろん、故意にしたことだった。
 受け取った小包を事務所に放置したことも、宛名の部分が乱雑に積まれた書類に隠れて見えないようにすることも、 それでいて送り票の下部に書かれた“JAPAN”という文字はちらりと覗いているようにすることも。
 朝からばたばたと駆け回ってみせて、何か言いたそうにしている加賀を無視することも、 忙しい忙しいとぼやいて、散らかった机の整理整頓を後回しにしたことも。
 丸一日たっぷりと焦らして、とっぷりと日が暮れてから漸く、フィルは加賀の声に応えて足を止めた。
「なに?」
「いや、別に何もねーけど。……お前まだいたの?」
「加賀こそ。早く帰ったら? 今夜は雪らしいよ」
 はー、雪ね、とぼやいて、見えもしないはずの夜空を眺めるように加賀は天井を見上げた。 ファクトリの天井は高い。広々として寒々として、こんな季節には一層殺風景に感じられる。
 加賀がここに「帰って」来てから3ヶ月ちょっと。 陽気に見える癖に、冷え冷えとしたここの景色が妙に似合う男だ――深い夜の色をした髪を見ながら、そんなことを思う。
 その黒い頭が動いて、向き直ったフィルと目が合った。ぱちりと瞬いて、口を開く。
「お前は?」
「帰るよ、もう少ししたら」
「なんか残ってんのか?」
「いや、単なる趣味でちょっと、ね」
怪訝な顔をしてフィルを見やった加賀が、ふと目を留めた。視線を辿ると、小脇に抱えた箱だ。
「あ、これ?」
 気になる?と目顔で訊いて、脇に挟んでいた箱を引き出した。大きさは小型のノートPC程度。 品のいい、滑らかな白木で出来ていて、蝶番で留められた蓋に金色の掛け金がついている。
「今日子さんから、今朝届いたやつ。見てみる? ちょっとすごいよ」
 ぴくりと加賀が動いた。彼女の名前を出したのも、「今朝届いた」と強調して発音したのも、もちろん故意だ。
 けれど反応には気付かなかったふりをして、フィルは手近な作業台の上にその箱を置いた。 留め金を外し、そっと蓋を押し上げる。――二段に開いた箱の中には、鮮やかな色彩が並んでいた。
「なんだこりゃ……」
「100色いろえんぴつ、って言うんだって。日本製。芯が柔らかくてさ、すごく綺麗に色が出るんだよ。嬉しくてちょっといじってるんだ」
 一緒に入っている小さなスケッチブックを広げる。 軽い試し描き程度でしかないが、昼休みに描いたいくつかのスケッチを見せてやった。 絵心のないらしい加賀はちょっと眉を寄せて、フツーのとどう違うのか分かんね、などと呟いている。
 確かにそうだろう。けれどフィルのように絵を描く人間にとっては、かなり大きな違いがあるのだ。 並んだ鮮やかな色彩を指で辿りながら、微笑む。
「ほら、この辺の色、見てよ。すごく繊細で幅広いだろ。 日本の風景って色合いが淡いから、それをきちんと写し取れるように作られてるんだと思う。 どうせなら描きに行きたいけどね、日本まで」
 日本の、今日子の家で療養していた時分には、リハビリを兼ねて様々な風景を描きに出掛けたものだ。 零れる桜の色や、風に透ける若葉の色合いが懐かしい。
 そんなフィルの感慨を無視して、まだ眉を寄せたままだった加賀はぽつりと訊いた。
「……今朝届いた、っつったか?」
「そう。航空便で」
「……コレひとつだけ?」
「そうだけど? どうかした?」
 空惚けて訊き返してやる。本当は、言いたいことは判っていた。今日は2月のちょうど半ばで、遠く日本では女性から男性に曰くありげな贈り物をする日なのだ。 その日本に、微妙な関係の女性を残して来ている加賀が、日本から届いた小包に過剰に反応するだろうぐらいのことはもちろん予測済み。
 そう返されるとは思っていなかったのか、加賀は一瞬たじろいだ顔をして、それから不貞腐れたように言った。
「……俺には?」
 え?と不思議そうな顔を作って、フィルは加賀を見つめた。
「なんで加賀の分があるなんて思うのさ。僕の誕生日プレゼントなのに」
「…………。」
 そう、2月のちょうど真ん中は、フィルの誕生日でもあるのだった。対する加賀の仏頂面も沈黙も、綺麗に無視する。
「お礼に一枚、描いて送ろうかと思ってるんだけどさ」
「……何を?」
「もちろん、マシンを」
 言いながら、思わず微笑む。風景でも静物でも、花でも動物でもなく、今日子がいちばん喜ぶのはきっとそれだという確信があった。 心底、レースが好きなのだ。大きな瞳を強く煌かせて、サーキットを見つめていたあの横顔。
 今はほんの少し、疎ましくなってしまっているのだとしても――少しでも、その気持ちを甦らせられたら。
「……ワザワザ送るにしちゃ、色気のねぇ選択肢だな」
「下心がないからね。加賀と違って」
「てめ、」
 一瞬本気で腹を立てた顔をして、――それから思い直したらしく不意に表情を消して、加賀は口を噤んだ。 動揺には気付かないふりをして言ってやる。
「それとも、加賀でも描いて送ろうかな。今日子さん、喜ぶと思う?」
「………………」
 じろりと、突き刺さるような眼差しで睨まれる。冗談ではなく本気の目だ。 もちろんこの程度で怯むようなフィルではない。涼しい顔で笑った。
「ま、喜ばないだろうね。僕も、描くなら加賀より今日子さんを描きたいし」
 マシンじゃなかったのかよ、とぶつぶつ言いながら、加賀はフィルに背を向けた。 期待していたモノがないと判って、もうここには用がなくなったのだろう。 雪が積もらないうちに帰った方が賢明なのは確かだから、フィルも引き留めようとはしなかった。
 ただ、色鉛筆の箱をぱたりと閉じながら、言った。
「ねぇ、加賀」
「んあ?」
「今日が何の日だか、知ってるんだよね」
「……何もやんねーぞ、俺は」
「そんなことじゃなくてさ。日本でもちょっと、特別な日だったよね、って」
「…………?」
 似つかわしくない話題に何かを警戒しているのか、加賀が小さく顔を顰める。気にするでもなくフィルは笑った。
「“Be my Valentine, Honey,”」
「…………」
「欲しいなら欲しいって、ちゃんと言えば? ……チョコレートでも何でも、山ほど送ってくれるだろ、きっと」
「誰が、」
 ますます眉間の皺を深くした加賀に、生意気な笑みを投げて、続ける。
「いらないなら僕が、もらっちゃうよ。今日子さん『を』」
「……の野郎!」
「じゃ、加賀、おやすみ。気を付けて帰って!」
 思わず掴みかかろうとしたらしい手をかわして、ガレージへ抜ける。 音を立てて閉まった扉の向こうで、一瞬躊躇したような気配と、ちぇ、という力ない舌打ちの音が聞こえた。 ひとしきり声を殺して笑って、それから、フィルは携帯電話を取り出した。


「……うん、そう。だいぶ苛々してたよ。『俺には?』なんて言うんだもの」
 くすくす笑うと、テーブル越しに向き合った相手は困ったように溜め息を吐いた。 ついさっき落ち合ったばかりだというのに、もう何度この溜め息を目にしただろう。 微かに顰めた眉の辺りが色っぽい、などと、不届きなことまで考える。
「それって、機嫌が悪いってことよね、……どうしよう、」
「今日子さんの顔見たら、不機嫌なんかすぐ直っちゃうよ。不機嫌なふりは続けるんだろうけどね、バカだから」
「……随分、言うようになったわね」
「誰かさんの教育のおかげです」
 まだ独りでぶすっとしているであろう加賀の顔を思い浮かべながら、フィルは悪戯っぽく呟いた。 まさか今日子が、今この街に滞在しているなんて、彼は夢にも思わないだろう。 と、いうより、彼らが頻繁に連絡を取り合っていることさえ、気付いてもいないのに違いない。
 いつもいつも自分の方が上手だ、なんて思わないことだ。せいぜい後で悔しがったらいい。 誇らしいような気持ちで、グラスを口に運ぶ今日子を見つめた。姉のように近しい、美しくて気高い人。
「会議、お疲れさま。明日はお休みなんだよね?」
「ええ、一応ね。明後日の昼までに横浜に戻れればいいから、」
「じゃあ明日は、ファクトリにも顔出してよ。きっと喜ぶよ」
 誰が、とは言わない。今日子は曖昧に笑った。下げた眉尻が淋しそうに見えて、微かに胸が痛んだ。
 バカなのは多分、僕の方なんだろうな。溜め息混じりに考える。 逢っていけなんて勧めずに、黙って彼女を盗ってしまえばいいのだ。――そんなこと、出来るはずもないけど。
 沈黙が落ちる。 俯いた今日子が、貴方に逢いに来ただけだから、もうこのまま帰るわ、とでも言い出しそうだったので、フィルは話を逸らすことにした。
「見て、今日子さん、外。とうとう降り出したね」
「え? ……やだ、本当。どうしよう、歩いていくつもりだったのに」
 会議が長引いたという彼女は、宿泊先のチェックインさえ済まさずにこのダイナーまで駆けつけてくれたのだった。 抱えてきた大きな荷物のことを思い浮かべてか、心配そうに眉を寄せる。
「送ろうか? それとも、うちに泊まる?」
「悪いわ、」
 どちらの提案に対してなのか、ちょっと困ったようにして今日子は首を振った。
「悪くなんかないし、どっちかって言うと僕は嬉しいんだけど、……」
「けど?」
 何か問題なの?と首を傾げる。
「今日子さんがうちに泊まるなんて、バレたら僕、半殺しかなって」
「……そう?」
「今の加賀は、『嫉妬の鬼』ってヤツだもの」
「また妙な言い回し覚えて……」
 呆れた、と言いながらも僅かに微笑んで、今日子はグラスを置いた。 空になったワインの色が移ったように、頬がうっすらと染まっている。
「で、どうするの?」
「なに?」
「ホテルまで送る? うちに泊まる? それとも、加賀のとこまで送ろうか?」
「…………ホテルまで、お願いするわ」
 赤面して今日子は俯いた。姉のような人、だと思っているのに、こうしてみると自分より幼い少女のようだ。 感動にも似た感慨を抱いて、フィルは今日子の顔を覗き込んだ。
「ほんと? 加賀のとこ行って、『プレゼントは私よ♪』って、やればいいのに」
「……もう、変なことばっかり覚えて!」
 本気で怒った顔になるのが、ますます可愛らしい。生意気にもそう思って、フィルは破顔した。 まだ少し、胸は痛むけれど――やっぱり彼女には、あの男が似合うのだ。
 じゃあ、ともう一度笑って、その今日子から贈られたばかりの色鉛筆の箱を目で示した。
「ホテルに着いたら、僕が暫く今日子さんを借りていいよね。ちょっと描いてみたいんだ」
 いいけど、と言ったあとに、不思議そうに呟く。
「私なんか描いて、どうするの?」
「加賀にでもあげるよ。僕が持ってるの見たら、怒りそうだもの」
 やだわ、と困った顔をする今日子に、悪戯っぽく微笑みかける。
「いいんだ、加賀のことなんか。僕が描きたいだけなんだから」
「なんだか、緊張するわね」
「していいよ。そのままでいて」
 どんな風だったって、ひどく可愛いこの女王様を。 スケッチブックに写し取るその間だけは、加賀にも邪魔はさせないからね、と、心の内で呟いて、フィルは澄ましてグラスを空けた。

[2010年2月/for Ms. MUTO as commemoration of 1000-hits]