例えば、恋をすると


 違和感を感じて目が止まった。膨大な人名と所属が書き連ねられた最終チェック表、見覚えのない名前が交じっている。
「……これ、」
「? なんです?」
 身を乗り出した担当者に困惑の視線を投げて、書面の一点を指差すと。
「装幀、……黒岩さんに頼むって聞いてたんだけど」
「ああ! そうです、それをお伝えしなくちゃいけなかったんでした」
 いつも明るい担当者――春日という陽気な女性だ――はあっけらかんと頭を掻いた。
「もしかして、断られたの?」
「いえ、こちらからお願いしたんです。女性の、出来れば若手で出来そうな人いませんかって」
「どうして、」
「ご覧になりました?」
 質問は途中になった。にこにこと差し出された封筒が、今日子の台詞を見事に遮ってしまった形だ。
「……これは」
「素材です。参考程度ってことなんで、普通紙ですし縮小かかってますけど」
 そこで春日は一旦言葉を切って、少々悪戯っぽい顔つきになってから続けた。
「でも、十分だと思いますよ」
 何が、と訊き返すのはやめた。代わりに分厚い封筒の中身を取り出して、膝の上にどさりと載せた。重い。 単なる確認用の仮印刷なのに、大して質の良くない普通紙の束の筈なのに、これだけの重さがあるなんて。
 綴り紐で簡単に、けれど力強く留められている束の中身をばらばらと捲っていく。 ――ああ、なるほど。一瞬で胃の腑まで落ちた納得に大きく息を吐いて、今日子はチェック表に判を押した。


 シングルモルトのウイスキーと、カカオ比率の高いチョコレート。 深夜だってのに何てこと、と自分自身に呆れるけれど、これっくらいの緩衝剤がないと正直、まともに向き合える気がしない。
 ぱり、口の中で薄いチョコレートを噛み砕きながら一枚、仮刷りを捲る。甘さより先に、苦さがぴりりと舌を刺す。
 ――誰だこれは。こんな眩しい男は知らない。それこそ、素面で直視するなんて不可能なくらい。

 加賀はよく笑う。身振り手振りが派手で、表情も日本人離れして感じられるくらいに豊か。 陽気で人懐こくて、飄々として掴みどころが無くて、――時折、ぞっとするほどの色気を降り零す、そういう恐ろしい男だ。
 そして、“撮影:彩・スタンフォード”。オーケイ、彼女なら納得しよう。
 丸く大きな空色の瞳が、特別高性能なのを知っている。作動対象はたった一人だが。 だが、きらきらと甘いそのフィルタは、彼女の撮った映像にまで、不思議な作用を及ぼすようで。

 恋をしている。たぶん、きっと、まちがいなく。
 すき、すき、だいすき、もっと、もっと見ていたい。焼け付くような想いが溢れている。
 溢れて、溢れて、ひたひたとこちらの胸まで満たして、ああ、困る、うっかりすると、伝染る。

 そうだ、これは彼女がかけた魔法の所為。レンズ越し、画面越し、粒子の荒い印刷面越しに、こちらの目まで犯してくる、容赦ない恋する瞳の所為。
 わたしのせいじゃない。わたしじゃない。わたしがじゃない。私が恋を、しているなんてはずがない。
 彼女が、彼に恋をしたから。
 みんなが、彼に恋をするから。
 だからなのだ。その所為だ。

 例えば、何十何百の人が犇く大会議場で。あ、あんなとこに居る、なんて、一瞬で見付けてしまったりするのも。
 例えば、誰彼となく自由なお喋りに花が咲いている飲み会で。彼が話題に挙がっているのばかり耳についてしまったりするのも。
 例えば、何てことない朝の挨拶に、思わず身構えてしまったりするのも、
 ――わたしのせいじゃない。恋なんて、絶対、ぜったい、私はしていない。

 からん、と氷の音がする。
 深夜零時、俯いた今日子の独り言に、頷いてくれる人は誰も、いない。


[2015年2月]