吹き抜ける風のように


「ハヤト、」
 懐かしい声。立ち止まった風見ハヤトが振り向くと、色の浅黒い、どっしりした印象の男が立っていた。
 どんぐりまなこに太い眉。にこにこと人好きのする笑顔。
「――大友さん!」
「久しぶりだな。どうだ? 調子は」
「バッチリですよ」
 小さくガッツポーズをしてみせながら、当然のことですけどね、と付け加える。
「さすがだな、チャンピオン」
「懐かしいですね。その呼び方」
「言われなれてるだろう?」
「ええ、慣れてますけど。大友さんの声で言われると新鮮です」
 ははっ、と笑った口元から白い歯が零れる。嫌味のない、素朴で眩しい笑い方だ。
 この笑顔に、この声に、かつて何度も救われた。
「今日は、どうしてここに? もしかして、CFに復帰とか」
「まさか」
 軽く流される。
「知り合いに呼ばれて来たんだ。昔世話になった人に」
「なんだ」
「がっかりしたか?」
「期待しちゃった分、ちょっと」
「WRCが楽しくてしょうがないからな。頼まれても戻っては来ないさ」
「そう言われちゃうと残念です。また大友さんと走れたら、きっと楽しいのに」
「今のおまえに追い付くのは難しいよ」
 言って、子どもの成長を確認するみたいにハヤトを眺める。
「『史上最年少チャンピオン』だったあの頃だって、おまえは手ごわかったんだから。『帝王』と一緒に走るのは、オレにはちょっとキツすぎる」
「そうかも知れませんね」
 悪びれなく言い切ったセリフに、笑い声で答えてくれる。懐かしい笑い方だ。大らかで、素朴で、豊かな笑い声。土のにおいと、陽射しの気配。
 ……雲の読み方、風の捉え方を、教えてくれたのはこの人だった。もう、10年以上も、前のこと。
「逆もまた然り、ですけどね。WRCのイベントじゃ、どれに出たって大友さんには追い付けないだろうな」
「そうだな」
「どうです? 今年は」
「10月のうちにマニュファクチュアラーズまで決めたいと思ってる」
「うわ、言いますね!」
「言うさ」
 目を合わせたら、にっと笑った。実際、言うだけの実力は充分にある。それはハヤトも重々承知だ。
「実を言うと、見てましたよ。去年の最終戦」
「放送をか?」
「現地で。騒がれたくなかったんで、目立たないようにしてましたけど」
「なんだ、」
 オレにだけは、知らせておいてくれてもよかったのに。そう言いながらも責めるような雰囲気はない。
「ま、CFのチャンピオンに見られているなんて知れたら、余計な緊張もあったかもな。どうだ、何かアドバイスでも?」
「まさか。充分すぎるほど、いい走りでしたよ。なんていうか……憧れました」
 CFでしか走ったことのないハヤトは門外漢も同然だが、それでも伝わってくるものがあった。
「あこがれる、なんて、初めて言われたな」
「口に出したのは僕だけかも知れませんけど。でも、結構いろんな人が、思ってるんじゃないかな」
「なんて?」
「――この人は、なんて大きなものと戦っているんだろう、って」
 大友が戦っているのは、同じレースを走るライバルたちではない。単なる時間や記録だけでもない。 生身の人間が挑むには、あまりに大きくて厳しすぎる相手――この世界そのものと、彼は戦っているのだ。
「それは嬉しいな」
 具体的に何のことなのか、一言も口には出さなかったのに、ハヤトの思いを読み取ったように、大友は笑った。 土のにおいがする笑顔。明るくて健全で、けれど、その底に何か、捉えようもないほど大きなものを隠している笑い方。
「何日も、何日も走っているだろう。そうするとだんだん、周りがよく見えるようになってくる時があるんだ。 疲れて、集中力は落ちていくはずなのに、不思議と」
 もっとずっと短いスパンだが、似たようなことはCFのレースの中にもある。ハヤトは黙って頷いた。
「ああいう時が好きなんだ。自分の手足と、自分のマシンと、マシンの外の全部にまで、神経が延びて繋がってるような感じがする。 自分はなんてちっぽけなんだろうと思うし、だけど、この世界すべてがオレだ、っていう気もする」
「……はい」
「タイヤが雪を踏む感触とか、正面から睨みつけてくる夕日の色とか、 襲い掛かってくるみたいに黒い森の、落ちてくる影の重たさ、ふいに雨が止んで空気が変わるときのあの風の匂い、 ……そういう全部と、繋がっている感覚が好きなんだ。すごく」
 いつも遠くを見ているような目が、ほんの少しだけ細められた。
「だから、今、すごく楽しい。苦しいけどな。身の程知らずな戦いをしてるって分かってる。 それでもオレは、頭と眼と手足が動く限り、走るのはきっとやめないよ」
「――大友さんは、」
 ん?と振り向いた、目の色が深かった。ああ、そうだ。この眼差し。
「CFのときだって、そうでしたよ。僕はいつも、……なんて言えばいいかな、……ああ、そう、あなたに、真っ直ぐ立つことを教えてもらってた」
「どういうことだ?」
「『地に足がついている』って、言うでしょう。こういうことなんだな、って分かった。地面についている足は、大地と繋がっているってことで、 それはつまり、強くて真っ直ぐなことなんだって思ったんです」
「……難しいことを言うんだな」
 困ったように笑う。けれど、解ってくれているんだろうと思った。そう思えた。
「どっちかっていうとおまえは、地に足なんかつけていたくないように見えるけどな。 アスラーダごと、青い風になって消えてしまいそうだと思ったことが何度もあるよ」
 今度はこちらが、苦笑で答える。自覚があるからだ。その後ろめたさまで、大友にはちゃんと伝わってしまっているらしい。
「――レースをしていると、時々、このままどこかへ行ってしまえればいいのにって思うことがあります。 これ以上は危ない、って頭では分かっているのに、逆らい難いくらいの誘惑を感じることが」
 今速度を上げたら曲がり切れない、ブレーキングが間に合わない、コンクリートウォールにぶつかる、マシンは大破する、そして自分は間違いなく死ぬ。
 そう理解しているのに思いっ切り、アクセルを踏み込んでみたくなる。そういう瞬間が、あるのだ。
「でも、僕は大丈夫。そう思えるのは、あなたに教えてもらったことがあるからです。僕はひとりで走ってるんじゃない。 僕らはあまりにもちっぽけだから、……だから、誰かと、何かと、繋がっていなければ生きられないんだって」
「そんな難しいこと、教えた覚えはないぞ」
 目をくるりと回して笑う、その顔がまた、懐かしくて。
「僕は風じゃなくて、翼なんです。吹き抜けたそのまま、どこかへ消えてしまったりなんてしない。きっと、繋がっているところに、戻ってくる」
「……それが、『帝王』の強さの理由ってことなんだろうな」
 ぽん、と音を立てるようにして頭に手が置かれた。あの頃みたいな身長差なんてもうないのに、あの頃に戻ったような気がした。まだ、ほんの14歳だったあの頃。
「大事にしろよ。自分も、繋がっている相手も」
「はい」
 目を細めた笑い顔に、笑顔で返す。別れの握手をする間、左手の指輪がやけに眩しく光を弾いた。

[2012年1月]