きみのかおり


「京番茶、まだ残ってたっけ?」
 帰って来るなりそう言った彼に、ん、まだ少しあったよ、と彼女は答えた。 その脇に小さな紙袋をすとんと置いて、彼は足早に洗面所へ入る。 あ、和菓子?と訊ねる彼女の声に迎えられて部屋に戻ると、小ぶりの水羊羹が4つ、ちょうど箱から取り出されたばかりのところだった。 保冷剤から白い冷気が零れているのが涼しげだ。思わず目を細めてしまう。
「貰ったんだ。お茶淹れて、食べよう。ちょうどいいくらいに冷えてるし」
 元来、甘いものには目がない。弾んだ声で言いながら、彼女の隣に腰を下ろす。薄くかいていた汗が窓からの風に吹かれて、冷える。
「今日子さんに会ったの?」
 え?
 唐突に言われて、彼は目を丸くした。驚いた瞳を覗き込んで、彼女は面白そうに笑っている。
「これ、今日子さんからもらって来たんだろ?」
「……おれ、言ったっけ?」
「言ってないよ」
 でも、判ったよ。くすくすと笑って台所へ立つ。
 薬缶に水を注ぎ入れているその隣に立って、なんで判ったんだ?と呟いた彼に、彼女は悪戯っぽい目線を向けてきた。
「においがさ」
「匂い?」
「今日子さんのにおいがしたの。あの紙袋」
 へぇ。そんなの、判るもんなのか。
 わざわざテーブルまで行って、紙袋をためつすがめつしてみた。……みたが、何にも判らなかった。首を振って、台所に戻る。
「おれには判らないな、全然。メカニックって鼻もいいのかな」
「ま、少なくともナオキよりは敏感だと思うけどね」
「悪かったな鈍くて」
 わざとらしく唇を尖らせた彼を彼女は笑い、陽気にコンロの火を点けて、沸くまで座ってようよ、と踵を返した。
 正統派の小倉と涼しげな抹茶のどちらの羊羹を食すかでひとしきり揉めた後、 脇に除けられた紙袋がやっぱり気になって、手に取ってしげしげと眺めてしまう彼。
「そんなに気になるの?」
 呆れ混じりの声に訊かれて、うん、と小さく頷いた。鼻先まで近付けてみても、さっぱり判らない。
「そもそも、オーナーの匂い、って……嗅ぎ分けられるほど、意識したことないもんな」
「オトコは鈍いんだよね、そーいうの。香水が変わっても気付いてあげられなかったりさ」
「うーん……擦れ違ったり、近くに居たりすると確かに、いい匂いがしてたような気はするんだけど。 何の匂いって言えばいいのかな……なんか……花みたいな。白っぽい、堂々とした感じの」
 あ、それいいね、と彼女が頷く。
「それ、確かにそうかもね。今日子さんは、花の香り。真っ白で重たい、大きな花の。うん、そんな感じ」
「うん……そんな、かな」
「同じ花でも、あすかなんかはピンクだよね。もっと細かくて、わっと咲いて降り注ぐような花の」
 彼女の親友の、飛び跳ねるようにきらきらした笑い方を思い浮かべる。 どんなに澄ましていてもやっぱりどこかはしゃいだ雰囲気の、少女みたいな目映さ。
「確かに、オーナーとはちょっと違うかもな」
「でね、」
 肘をつき、猫のようにすいと顔を寄せて、彼女は笑った。
「ナオキは、緑のにおいがするよ」
「みどり?」
「男の子の、夏っぽいにおい」
「……全然、判らない」
 思わず視線を落とした自分自身の手からも肩からも、全くそんな匂いは感じ取れない。途方に暮れた声で呟く。
「そりゃ、ナオキには分からないんだろうけど。 暑い日にふいっと涼しい風が吹くときみたいな、濃くて重いのに涼しげな、いいにおいがするんだよ」
 言う声が、すっと彼の背中に回った。そのまま、とん!と音を立てて抱きつく。
 うわ。不意打ちだ。
 非難がましく思う間もなく、わ、と大袈裟な声を上げて、彼は前につんのめっていた。
「ふふっ」
「……どうしたんだ?」
「うれしい」
「なにが?」
「あたし、ナオキのにおいって、すき」
「…………」
 滅多に聞けない甘い台詞に、思わずくらりと息を呑む。それが面白いのか、彼の背中で、彼女はまたもくすくす笑う。
「ナオキは、今日子さんのにおいが好き?」
「……何言ってるんだよ、」
「いいにおい、って言ってたじゃん」
「そうだけど」
「あたし、花みたいなにおいなんてしないよ」
「それは、」
 振り向きかけて言いよどんで、またちょっとそっぽを向いて、赤面する。
 それは、まあ、そうだけど。
 そうだけど、でも、好きなのは。
 思い浮かべる。出逢った時から変わらない、彼女の眼差し、彼女の匂い。
 いつもいつも懐かしい、機械油と金属の匂い。
「……そう、だけどさ」
 抱き締める華奢な身体に残る馴染んだそれは、一生追い続ける彼らの夢、そのものの匂い、で。
 ――ああ、だから。
 不意に気付いて、顔を上げる。
 だから、こんなにも懐かしいのかな。こんなにも愛おしいのかな。 そんな風に考えて、思わずそのまま破顔する。
「ん? どしたの?」
「……うん、嬉しい」
「なにが?」
「おれも、みきの匂いって、好きだな」
「…………」
「うん、大好き、だな」
 何故だか満足そうに頷いて、彼は漸く振り向いた。ちょっと驚いた顔の彼女。少し温度の上がった頬に、口付ける。
 言わなくたって分かってよ。
「おれがいちばん、好きなのは」
 いつも懐かしく愛おしい、きみのかおり、なんだから。

[09年8月]